氷帝学園テニス部では中等部、高等部共に普段から朝の練習を欠かさない。ただ、氷帝学園のエリート校という性質のせいか、規律、というよりは自主性を意識した部分があり、朝練は自主的な練習を主にしている。
よって先輩後輩の交流も多くそのせいもあってか、他校生の認識よりもずっとこの学校は部活内での人同士の繋がりはしっかりしている。
つまりは、学年を通して仲が良いという事だ。余談だが昨年のレギュラーは全員お互いのメールアドレスなどを把握し連絡が取れるようになっていたし、私的な会話もよく交わされている。
旧3年生が高等部に上がった今でもその関係は続き、大きな休みの度には毎回跡部家の別荘に招待されたりと、中々楽しくやっているわけである。
今日の中等部の朝練では、完全なる自主練習体勢を取っていた。
部長の日吉が見回る限りでは、なんと言っても正レギュラーの3年生である長太郎や樺地が温厚な性格をしているためか、優しい指導を後輩にしていたりと去年とはまた違う形だが上手くやっているようである。また、日吉自身も本人は気付いていないが大分世話焼きな性分であるため後輩への指摘等はきちんと行っていた。
日吉は壁打ちを繰り返した後、部員を見回るためコートを歩き出した。
するとフェンスの向こうに、朝練に来るにしては遅すぎる時間に芥川慈郎が通ったのが見えた。
遅すぎる、とは言っても過剰すぎる睡眠癖のある慈郎がこの位の時間に来るのはまだ良い方だ、と日吉も分かっていたが、見つけたからにはとりあえず挨拶くらいはしておこうと考えたのでフェンスへ歩み寄り、まだ眠気の抜けていないような慈郎に声を掛けた。
「おはようございます、芥川さん」
「んー、あーひよCー?おはよー」
「これから朝練ですか?」
「あーそうっぽいけど俺行かないCー…寝る…」
「変わってませんね」
「いいの俺は俺のままでいるからー」
日吉は内心呆れたように苦笑した。慈郎は高等部に上がっても変わったことなど無かった。
寧ろそれがありがたいとさえ日吉は考えていた。
人が変わってしまうのはたとえ良い変化でも少し寂しいものがある。3年生が高等部に入ってから、会う機会が少なくなって煩かったあの日々がなくなり心のどこかで寂しいと感じていた日吉は、変わっていない元3年生達を見ると妙に安心したような気持ちになるのである。
簡単な挨拶だけ済ませて戻ろうとした日吉はある点に気付いた。
「芥川さん、それどうしたんですか?」
日吉はポケットに突っ込まれた慈郎の左手に包帯が巻かれているのを指差す。
「あーこれ?これさー寝ようと思って木ん所に寝っ転がったら木ですりむいてさー意外と血が出ちゃって保健室で巻かれたー大げさだCー」
「そうなんですか。気をつけてくださいよ、仮にもテニスしてるんですから」
「仮にもじゃないよちゃんとやってるよーひよCー意地悪」
「誰がひよCーですか」
そんなどうでもいいようでいつもこれが楽しいと感じるような会話を繰り返した後、日吉はコートに戻り、慈郎はまたゆるい感じで歩き出した。
日吉は慈郎の左腕に巻かれた包帯の理由を最もらしいと何も疑問には思わなかった。
慈郎は歩きながらフェンスに左腕を不意にぶつけてしまった。もちろん、怪我をした所をぶつければ増して痛い。
慈郎はビクッとしながら悔しそうに腕を押さえる。
「いったーあのヤロームキになってくるんだもんなー」と洩らした。
* * *
校舎の物陰の草むら。
「ジロー、おいジロー」
「ん…あ…?あと、べー?」
「テメェは何回サボったら気が済むんだふざけんなよ」
「んー分かったから寝る…」
「寝るんじゃねえよ!」
跡部は少し頭を上げてすぐに元通りにした慈郎の頭を容赦なく蹴った。
その反動で慈郎は飛び上がり、頭を押さえて悶絶する。軽く涙目になって仁王立ちになっている跡部を睨んだ。
しかし凄んでいる跡部には効き目はない。
跡部はまるでチンピラのような声音で慈郎の胸倉を掴み、低く言った。
「もっかい言うぜ…テメーは何回朝練をサボってんだ…ああ?」
「だって眠いCー」
「眠いじゃねえよこのアホが」
「きゃー跡部に襲われるー」
「一回地獄見てぇのか?」
そんなコントのようなことを繰り返していると、朝練を途中で抜け出してきた忍足、岳人、宍戸、滝がひょい、と顔を覗かせた。
4人は既に制服に着替えている辺り、もう朝練に戻る気もないようだ。おおよそ跡部をからかいに来たといったところか。
「お前らなんでここに来てんだよ戻れ今すぐに戻れ」
「そないな事言われても俺らもう着替えてもうたしなぁ?」
「そうそう俺達は跡部が大変かなーと思ったからジローを起こすのを手伝いに来たんだよ?」
「そうだぜ、ほらジロー起きろよ」
宍戸は連れてこられただけなのか別に悪乗りはしないが忍足、岳人、滝は言いたい放題である。
跡部の顔に青線が浮かぶがお構い無しだ。ジローは既に2回目の眠りの入っているようだが跡部すら気付かないほどに今度は忍足達との攻防を繰り広げていた。
跡部もこういった時だけはいつもの大人ぶった態度ではなく、歳相応のただの学生になる。
ジローにとってはこの大騒ぎさえも、子守唄のようなものなのかもしれない。しかし何故かジローはこの日だけは目が覚めてしまった。
ぼんやりとした目で跡部達を見た後、収まりつつある中跡部だけに話しかけた。
「今日ちょっと俺用事あるから部活出なEー」
「またサボる気じゃねぇだろうな」
「違うって、うち今日親が結婚式に呼ばれたーとか言って妹置いてくから面倒見なきゃいけないの」
「ほぉ、ジローにしちゃまともな理由じゃねえか」
「いいのー?やった跡部良い人だ大好きー」
「くっつくんじゃねえよっ!」
跡部は正当な理由などがある場合、理不尽な対応は決して取らない。
それが信頼され、いつでも人々の先頭に立ちながらしっかりと物事をこなしていける所以である。また忍足達はそれが分かっているから、跡部を裏切ることなく何だかんだと言いながらもついて行くのである。
* * *
「じゃあ俺帰んねーとりあえずもっかい跡部に言っといて」
「りょーかい」
同じクラスである岳人に断り、慈郎は教室を出た。
家では妹が待っている。兄は既に1人暮らしをしているため家には戻ってこない。
妹はまだ小学生であるし、慈郎よりもマイペースな所があるから1人にしておくのは少し不安だったのか親は慈郎に留守番を頼んだ。
慈郎は恐らく先に妹が待っているであろう家に少し早歩きで向かった。
慈郎の帰路は他の生徒よりも些か人気のない道を通る。東京で自営業のクリーニング店を営む慈郎の家は商店街の辺りに位置するため、人通りの多い東京の大通りは通らないのだ。
中でも暗いわけではないが、細く寂しい道を通っていた時だった。
慈郎の周りを3人のやはり高校生から大学生くらいの年齢層の男達が取り囲んだ。
「テメェ昨日は良くも遠藤さんをやってくれたな」
「遠藤さんって誰」
「ふざけんなよ!!テメェがご親切にもタコ殴りにしてくれた俺達の兄貴分だよ!」
「あーあれか」
「遠藤さんの屈辱は俺達が晴らさせてもらうぜ」
「こいつ昨日の遠藤さんのナイフで左腕怪我してんぜ!」
「やっちまおう!」
「面倒くさEー」
「うるせぇえええ!」
無遠慮に3人同時に慈郎に殴りかかってきた。慈郎はそれこそ余裕で3人の打撃を避ける。
3人の攻撃はワンパターンでその動きを捉えるのは慈郎にとってそう難しいことではなかった。3人はそれに一層逆上して更に襲い掛かる。
慈郎は後ろ向きで1人の尻を蹴飛ばした。
蹴飛ばされた男はマヌケに顔面から地面に突っ込んでいく。その男は顔を擦りむきながら「このやろぉおお!」と醜く叫んだ。
その調子で慈郎は1人で3人とも倒してしまった。
男達の1人が態度をコロリと変えて言った。
「あ、あんた、俺達の仲間になんねえか。あんたが入りゃ俺達は最強だ」
「興味ないし」
慈郎はすぐさまそう吐き捨てると家の方に向かって振り返りもせずに歩き出した。
3人はその場に立ち尽くしていた。慈郎の後ろ姿がもはや見えなくなると、「何なんだアイツ…」と洩らすのが精一杯だった。