どうせ同じ道を辿る事しか出来ないほど
自分は無力だったのだろうか
自分は愚かだったのだろうか
お願いだから
そこへ連れていかないで
ここに閉じ込めないで
ここにいるのは嫌だから
救急車のサイレンが鳴り響き、単なる好奇心からの野次馬の数も増えていた。救急車がそこへ着くと、救急隊員達が慌しく救急車から降り、担架を持って走って行った。
その建物の屋上に隊員達が到着すると、患者であろう男が地に伏していた。完全に気を失ってるとはいえず、恐らく本人も無意識だろうが、小刻みに痙攣のようなものを起こしながら何かを懸命に呟いていた。痙攣した体は必死に起き上がろうとしているようで、うつ伏せの状態から立ち上がろうと膝で体を支えるが膝は体以上にがくがくと震え、失敗に終わる。立ち上がれない体で、それでも男の目は前をしっかりと捉え、憎しみでぎらぎらと油を垂らしたように嫌な光を放っていた。
息が一々途切れ、苦しそうに呼吸音が漏れるのも厭わず、ある言葉だけを呟き続ける。
そこの場に居た者皆が、その光景に言葉を失い、立ち尽くした。男の余りの憎しみの感情が放つオーラにもしかしたら見惚れていたのかもしれない。その、一途な感情に。
上半身にはもはや全くと言っていいほど体力は残っておらず、腕を持ち上げることさえ叶わない。かろうじて僅かに力の入る下半身で、腰を浮かし、つま先で地面を擦るようにしてセンチメートル単位で男は進もうとしていた。
投げ出された右腕のその指が地を這い、何かを掴み取り、掻き毟るように動いた。
体にある力は幼児よりも少ないように思える。それでも今では見るに耐えないほど痩せ細った体でなおも男は呟き続けた。
「あの女…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…絶対、殺してやる…」
その後、千石清純は病院に強制入院させられる事になった。
* * *
千石にとって、見覚えのある忌々しく感じられる場所。ある大学病院の精神科病棟だった。
千石については、個室入院が要とされたが、一般病棟の方には千石のような患者に対応できる個室がたまたま空いていなかった。そのたまたま、が千石にとっては幸か不幸か、闇の底に沈もうとしていたその精神を二度と引き上げられなくなることになる。
元々精神科にはそういった患者に対応できる部屋が多々ある。また、千石自身栄養失調という理由で搬送されたものの、先ほどの様子からどう考えても精神に異常を来たしている事は一目瞭然であった。
という事もあり、千石は精神科における長期入院が決定されたのであった。
始めは、ここ碌に睡眠をとっていなかった為、千石は点滴で栄養素を供給しつつ寝入っていた。その顔に安らかさはなく、疲れを癒しているようにも見えなかった。
ただ、目を閉じて、覚醒のときを待つかのように眠っている。
三日ほどして、千石は目を覚ました。
医師が「目が覚めたようだね。気分はどうだい?」とありきたりな台詞を吐いた。千石はそれに応えることなくぼんやりとした目で病室を視線だけで見渡した。千石自身の周りにある部屋の光景を見る度に、千石の目が見開かれていく。体が振るえ、歯ががちがちと鳴った。医師は「大丈夫かい?どうした?」と声を掛けるがそれには耳も傾けない。
千石の目に焼きつく。
薄暗い部屋、消毒液の匂い、腕から伸びる点滴、優しく語り掛ける医師、精神異常者の自分――――
「ど、どうしたんだ千石君」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だあんな女と同じになるなんて嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ憎い憎い憎い大嫌いだ俺は何もしなかったのに悪いことなんてずっと良い子でいたのに何であんなことしなきゃいけなかったの俺はあんなに頑張ったのに嫌だって思ってもあんなに一生懸命にやったのに何であいつはへらへら笑ってるだけなんだよしかもご飯何がいい?だって馬鹿じゃないのあのアマどうしてこんな風になるの本当大嫌いだただ父さんに足開いただけのメスと同じになるなんて嫌だ俺はあの女とは違うのにだからあの馬鹿女を殺してやらなきゃならないのにそしたら俺は自由になれるしあんな馬鹿女の世話なんかしなくて済むしもしかしたら父さんも帰ってくるかもしれないしそうだよあの馬鹿女さえ居なければ良かったのにこんな所にいて未練がましくゴキブリみたいに汚らしく生きてるくらいなら死ねば良いのにいっそ俺が殺してやるのにそうだよ俺があの馬鹿女を殺してやるんだよ思いっきり首を絞めて泡吹くまで力入れて苦しめて殺してやらなきゃいけないのにだから俺はこんな所にいる場合じゃないんだよこんな所嫌だ嫌だ出してよ早く出せよ早くうちに帰りたいよさっさと俺にあの馬鹿女を殺させてそれからうちに帰らせて嫌だ嫌だこんな所嫌だ汚いし落ち着かないし臭いしあの馬鹿女の感じがするから嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやっ、…だ、いやだっ、いや、だ、いや、うぁ、ぁ、うぁあ…っ、うあああぁあぁぁぁあぁああああぁぁあぁぁぁあぁぁあ!!」
千石は一気にまくし立てると声帯が壊れんばかりの声で叫んだ。その叫ぶという動作は何の意味も持たず、ただ持て余す憎しみという感情だけに任せて叫ぶだけだった。
間隔を空けずに話した事と叫んだことで千石の肺に貯蓄されていた酸素がそこを尽き、息を激しくつくことを余儀なくされる。「はぁっ、はあっ…はぁっ…」とうつろな目で間隔短く浅い呼吸を繰り返す。
千石は入院患者用のパジャマの袖を捲り上げると点滴の針をバリッと乱暴に剥がした。そのまま崩れ落ちるように体全体でベッドがら降りる。
立ち上がるがすぐにバランスを崩す。それでも千石は病院を出ようと地に這いながら病院の外に出ようと乱れる息も気にせずに進んだ。裸足である足が引きずるたびに擦れて皮が剥ける。
廊下の途中に置いてあった花瓶を見つけると、それを叩き割り、その破片で手の甲に切り傷を負わせ血を出そうとする。
「あの女と同じ血なんていらない…全部出せばいいんだ…なくなれ、こんな血なんてなくなれ…汚い…汚い…」
栄養素を補給していたとはいえ、しばらく運動をしていなかった痩せて筋肉の落ちた体は長い運動には耐えられなかった。
病院の入り口の前でとうとう崩れ落ちてしまった。その支えを失った体をコントロールできないまま千石はもはや光を失ったその瞳で呟き続けた。
「殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…殺してやる…」
意識を失うまで、ただそれだけを淡々と。
* * *
その後、千石は別の精神病院へと移送された。施設も良く整っていて、陽のあたる暖かい場所だった。
千石はもはや一人で体を動かすことも、誰かと話す事も出来なくなっていた。一人の時は無機質なベッドに横たわり、ただその時に顔が向いている方を曇ったガラスのような目で見ているだけだった。
時折、南や亜久津が訪れ、病院の広場へと千石を車椅子を押して散歩に連れて行った。南は「早く戻って来いよ」とか「室町が心配してたぞ」と度々話しかけるが、返事が返ってきたことはない。
以前のように「マジでー?嬉しいなぁ」とへらっと笑って陽気に返してくれはしない。たまに視線をかすかにこちらに向けるだけで、きちんと振り返ったりしないし、言葉を発することなどない。風が吹き、木の葉がゆらゆらと舞うたびに、首を動かすのも億劫というように視線だけで木の葉の行方を追う。
亜久津は来たとしても元々多弁ではないため殆ど話さない。ただ、律儀に来ることは間違いなく、もしかすれば亜久津が一番頻繁に来ていたかもしれない。
千石は亜久津の来た今日も車椅子に座り、上をぼんやりと見つめていた。
「………てやる」
「ああ?何か言ったか?」
「…………」
「言ってるわけねーか」
* * *
そうして、季節は巡り、春がやってきた。
跡部、宍戸、岳人、慈郎、滝、長太郎、日吉、樺地、そして千石の元にある手紙、もとい招待状が届いた。
もう少しで、消える