世の中当たり前だが理不尽というか不可解な事が多すぎる。今まさに私を巻き込みながら起こっている事象がまさしくそれであり、私にとってそれは不快、つまりうっとうしいの類のものであって別に苦しい・悲しいなど感じるまでもない。というかこいつらみたいな低俗人間ども相手にそこまでしてやったりする必要性が皆無だしそんなまさにこいつらが望むような反応を返してやる気なんてさらさらない。寧ろ私の苛つかないレベルの話をして欲しい。その前にこいつらの傍にいたくない。何か有害で頭の悪そうな空気が漂って来る。私に移りそうだからこっちに来るな。さっきからこんな事をいっているが別に私が特別であるとかレベルが高いとは微塵も思っていない。こいつらのレベルが極端に低いとしか思わないしレベルの低い奴らが集まって余計レベルを下げている感がある。自滅か。負の数と負の数同士を足したところで負の数にしかなり得ないのと同じだ。こいつらは私に向かって「キモイ」とか「こっち寄るな」と言うけれど私にしたらお前らの方が気持ち悪いしこっちに寄るな(同じ言い回しを使うのは癪だが)人を突き飛ばしては「汚ぇー!菌が移る!」とか言う位なら触らなければいいし、寧ろ触るな。こっちこそ本当に菌が移る。虫唾が私の体を駆け巡って神経をじわじわと侵していき私の冷え切れなかった心の部分をピンポイントに痛めつけてくる。まるでドライアイスを皮膚に押し付けられたような劈くような痛みが襲ってくるが、幸い私は痛みを隠す事が出来るから人の心を察するのが元からクズ並みに出来ないこいつらに感づかれる事はない。もしもこいつらに感づかれる時が来るならそれは私もとうとうレベルの低いこいつらの有毒なガスが私の体を蝕んだ時だ。例え、ドライアイスで心が低音火傷、凍傷になって腐っていったとしても一人で朽ち果てるだけだ。ああ、本当に寄るな。
「うっわー!!冷たそー!」
「ハハッ、大丈夫ー!?」
「頭が冷えていいんじゃなーい?そのまま居なくなればー?」
「貴方達がいなくなれば?」
私が教室に入った瞬間頭上に水が大量に被さってきた。ベタ過ぎて怒りで上がるはずの心の熱は寧ろ冷え切る。ギャハハという低俗な笑い方はもはや公害じゃないのか。笑うという行為は元々喜びや楽しみを表す表情ではないのか。無論、こいつらはこいつらで楽しんでいるつもりだろうが所詮楽しんでいる“つもり”に過ぎない。まあ、低俗な人間の楽しいという感覚はその程度なのかもしれないが。
「何こいつ生意気なんだけど!」
「一回死ねばー?」
「私よりあんたらが死んだ方が世の中綺麗になると思うんだけど」
「マジムカつくー!」
「いっつも貴方達罵る時は同じ様な言い回しよね、思うんだけど罵りたいならもっと語彙力を上げた方がいいんじゃないの?」
そう言えば、こいつらの顔はかーっ、と赤くなって分かりやすすぎる怒りが露わになる。私から見るとそれは般若のように醜い顔をしている。私は相変わらず、自分で言うのも変だが顔色一つ動かすことなく、それを見ていた。本当ならこんなくだらない事に時間を割いている場合ではなく、さっさと席について新しく買って来た本を読みたかったのだ。そうは言ってもこのびしょ濡れのまま居るわけにもいかないが、そうは言ってもジャージなどの着替え類をあいにく今日は持っていない。どうしたものかと思い、とりあえず、今日は授業に出る事を諦めて一日裏庭か何処かで制服を乾かす事に専念しようと思う。どうせ一日くらい授業を聞かなくてもどうって事はないし、今までもこんな事はあった。大丈夫、きっと。
私が教室から出ようとすると教室の中からはさも満足そうな爆笑が湧き上がった。こいつらの思い通りになってしまった自分に心底腹が立つ。
私は悪くない。何もしていないから。
* * *
私は日の影になっているものの暖かい陽気のする丁度良い木陰を見つけそこに座った。制服を乾かすなら太陽に当たった方が良いのだろうがそんな気分には到底なれない。明るく照らされるのも嫌だ。座り込んで数十秒ぼーっとすると嘘みたいに平和で、さっきの低俗な笑い声も、変に耳に残っていたバシャン、という耳障りなバケツから零れる水の音も聞こえない。このままこの場所に溶け込んでもしかしたら絵になれるかもしれない、とらしくもない事を考えた。このどうしようもない様な途方もない感覚はきっと絵になれるかもしれない、溶け込めるかもしれない、じゃなくて絵になりたい、溶け込みたいのだと私自身が自分に教えてくれた。そんな残酷な現実を冷静に分析するだけの頭なら要らないのに。動く気力も出ない。いつかこうしていれば、呼吸する気力もどんどんなくなっていってきっと呼吸をする方法も忘れて、消えてなくなる。
それでもまだ生命を維持するつもりらしい私の体は昼時を迎えると共に空腹を感じ始める。どうしようもないので、鞄に入れた弁当を取り出す。包んである弁当を手にした感覚が嫌な感触を伝える。湿っていて、取り出せば案の定ビチャビチャになっている。中も見られた物じゃない。蓋を開けたまま呆然とする私の頭上にイントネーションの変わった声が聞こえてきた。
「自分、やろ。弁当どうしたん?」
「忍足、君…」
忍足君は私と同じクラスだからきっと理由は想像ついているんだろう。それに鋭い部分がある。同じクラスの中で私の事を露骨に毛嫌いしる奴らを除いても大体無視してきたりして、仲良く喋った事のある人はいないし、無視するだけにとどまっている人は全員、影で私の悪口を言っているのを見た事がある。ただ、忍足君については見た事がない。私の本当に見えないところで悪口を言っているのかもしれないし、言っていなくてもやっぱり私を嫌っているかもしれない。今まできちんとした話をした事は無かったが、忍足君が私に話しかけるとはどういう風の吹き回しだろう。しかもこんな人目につかない場所で。
「俺が朝練終わって教室戻ってきたらいつも早う来とるがおらへんかったからどないしたんやろ、思ったで」
「忍足君はどうしてこんな所に来たの。私の事他の奴らみたいに嫌ってるんじゃないの。誰かの差し金?」
思ってもいない言葉が苛つくほど流暢に吐き出される。きっと低俗な言葉に抵抗するために今まで培ってきた批判・反論をすらすらと述べる事のできる能力かと思うと、皮肉だと思う。気付けば教室に居た頃の私はもっと冷静に周りを見渡せたのにここに来て一人になったというだけで心は随分現実離れをした考えを起こしていた。今、こうして少し話しかけれただけでもうあの教室という中に自分から陣取っていたこじんまりとした居場所を失くしてしまう気がする。
「まぁ、最初っから信用してもらおういう方が無理あるわな。今まであんな事されてきたんやし、俺も知っとって何も言わへんかったし。でもな、俺は差し金とかやあらへんよ」
「分かってるなら、何で今更声なんか掛けるのよ」
「今日言うてたらしいやん、『私よりあんたらが死んだ方が世の中綺麗になると思うんだけど』ってな」
「それが?」
「何か俺のツボに入ったんや、確かになぁ、ってな。ホンマ、自分はイカすやっちゃなぁ思ってな」
「そう、で御用は?」
「せやから、心に傷を負ったお嬢さんを救いに来たって訳や」
「あっそう」
心無い返事を返す口とは裏腹に私はとても動揺していた。これだけの事なのに、心臓の昂ぶりは収まらない。大げさかもしれないが、まるで鳥肌が立つような感覚に襲われた。きっと私がテレビに出ている素直なアイドルのような性格をしていたのならすぐさま目の前にいる眼鏡をかけたこの男に抱きついてしまったかもしれない(その前にそんな性格ならこの現状は少し変わっていたかもしれない)こうして言葉を掛けられてからもう一度手の中の弁当に視線を落とすと不意に涙があふれてきた。そんなはずはないのに、
「どうしたん?泣いてるん?」
「泣いてなんか…っない…」
「何か思ったんやろ。言うてみ」
「息が…出来なくなって…消えていって…」
「そっか」
そう言うと、次に起こった事を私は理解できなかった。息が苦しくなって、口の中が一杯になって、温かい感触がする。ああ、私はキスをしているのだと理解するまで忍足君は私を離さなかった。おかげで息は切れ、唇が離れたとき、私はゼェゼェと呼吸を繰り返していた。
「これで分かったやろ?息する方法」
「そだね…」
呼吸をする方法