失うという事は突然で、余りにも一挙に失うものだから、
私達に悲しみを味わう時間など許されないのだ。
そのため私達が悲しさなんて感傷的なものを感じている時間的・精神的余裕はなく、
私達の心と呼ばれている魂の入れ物を支配するのは
恐怖や不安といった、切迫感情なのだ。






その日は、いつもと変わらない日だった。いや、変わらない日のはずだった。変わってしまった事は、おかしかった事はたった一つだけだった。ただ、その一つだけが、私にとってどれだけ大きな衝撃だったかは計り知れなくて。どうして、何で、という考えよりも嫌だ、の一点張りだった。どうせその原因・理由なんて分かった所でどうしようもない。とりあえず何でもいいから元に戻してくれればいい。

その、変わった事といえば、「」と先生に呼ばれた声に「はい」と返事が出来なかった事。ただ、その二文字さえ言えなくて。まるで喉の奥にワインの瓶に入っているコルクが詰まって私の喉に栓をしているようで、無理矢理出そうとした空気がヒューヒューと虚しい音を鳴らした。詰まっている所を強行突破しようとすれば、激しく咽てしまった。先生が私を不審がって見ている。それはそうだ。私は先生に明らかに気付いているのに返事をせず、口をパクパクさせてもがいているだけなのだから。もしかしたら間抜けに溺れているように見えたかもしれない。私はとてつもなく必死だったのだけれど。

先生が私の方に寄って来てくれた。どうしたんだ、と聞いてくれたはいいけれど、答えようがない。答える手立てがない。私は必死で先生に「ここで待っていて」と身振り手振りで伝えると、急いで机からメモ帳とシャーペンを持ってきて、至極汚い字で(急いでいたから仕方ないと思いたい)私が置かれている状況を伝えるべく、簡潔に、本当に簡潔に“それ”を書いた。先生に見せれば、驚嘆と疑念の混じった顔でそのメモ帳と私の顔を交互に凝視された。メモ帳に書いた字が、私自身を現実へと、押さえ付けた。


『声が出ない』




* * *



声が出ないと言う事実は、もしかしたらそんなにたいそうな事ではないかもしれないけど、私にとっては五感を失う、または四肢を失うほどに衝撃的な事だった。それでも、授業は良かった。話は先生が勝手に話してくれるから、聞いていればいいし、板書を黙々とやっていればそれで済むのだから別に話す必要はない。問題は休み時間とかそういった空いた時間だった。意思疎通をするにも筆記で会話をするしかないから、どこに行くにも最低限の筆記用具が必要になるし、とても筆記じゃ言えない様な長いことはもはや伝えようがなかった。その度に、私はその不便さに苛つき、コルクがはまった様な自分の喉を忌々しく思った。無理矢理、小さな声でもいいから、と出そうとすれば咽てしまう。そしてまたその度に他人に心配をかけ、迷惑をかける。

現に、今だって。





忍足に呼ばれて振り返るけどいつものように「どうしたの、忍足?」と返せない。だから、忍足に「いや、何でもあらへんよ。見かけたから呼んでみただけや」と言ってもらえない。私にとって1日の中で一番大切な挨拶ともなっているそのやり取りが出来ない。私はとても悔しくて、でも拳を握り締めることしか出来なかった。


「声、出えへんのやって?」
『どうして知ってるの』
「そんなもん、の事やし、朝一で聞いたで」
『ゴメン、ものすごく迷惑かけ「そんなことないで」
「……」
「どないしたん?」


書いている途中で言われてしまった。私が書くのが遅いから。私が話せなくなったから。忍足は待ちわびて先に言ってしまったんだ。もしかしたら忍足は私にじれったいとか、そんな事を思ってるかもしれない。そんな思いをさせる自分が本当に嫌いだ。私の喉が本当に切り裂いてしまうほどに忌々しい。この役立たず、



* * * 



「え、本当に声出なくなっちまったのかよ?」
「ホンマや。せやから俺がとりあえず病院連れてくから部活出られへんのや。堪忍な岳人」
「別に、そういう事じゃ仕方ねーし。じゃあ俺は練習してるな。によろしく頼むぜ」
「おおきにな」


声が出なくなったって、どういう事なんやろ。やっぱりよくあるあれやろか、精神的な問題とか。がそんな声が出えへんようになるまでなんか思いつめとったんやろか。そしたら俺恋人失格とちゃうんか。せやけど、今はそないな事考えてる場合やないし。病院ゆうても、そんなんきっと治るのを待つだけ、て言われるんやろな。さじ投げられるわ、きっと。いや、別に助からんとかそういう命に関わる云々やなくて、解決法がないっちゅう事。そんなん薬とか治療で治るとは思えへんし。

せやけど、が何かを話そうと、無理に声を出そうとするたんびに喘息みたいな空気の漏れる音がして、その後めっちゃ咳き込むんや。俺は筆記で書いてくれて構わへんのやけど、つい書こうとしてる事が先に分かってまうと、口に出してしもてが書き終わるのを、待っててやれへん。そんでまたが悔しそうにして俯いてしもて、声は出えへんけど口パクで「何で声が出ないの」って言うてるんや。それがホンマ痛々しいんや。


「やはり精神的な所から来る物ですね。きっと大した物じゃないストレスが今まで積もりに積もって一気に出てきたんでしょう。その証拠に今までは健康そのものだった。具体的に、こうすれば治る、といったものはないのですが、一番大切な事はゆっくり休む事です。その為に少ない症例ではありましたけど今までの患者さんは田舎の空気にしばらく触れてみたりとか、」


ぶっちゃけると、ここまで位しか聞いてへんかった。その先も何か言うとった気はするんやけど、そこまで聞けば充分やと思ったし、これからどうするかも何となく見通しが立った。俺はとりあえずを俺のアパートにあげた。こういうとき一人暮らし同士って楽やな。気兼ねあらへんし、別に家に連絡とかいらへんし。俺はに分厚い真っ白なメモ帳と、ボールペンを一本与えた。と相談して、学校は少し休むって連絡を入れた。別に絶対行けへん事もないけど、しばらく休め言われたし、俺もどうせ勉強なんてついて行けへん事もないから面倒くさいから休むことにした。そう言うたらがめちゃくちゃ申し訳なさそうな顔をするもんやから放課後らへんにたまに部活だけこっそり顔を出すことにした。そんでもたまに外に連れてくついでに学校にもちょっと寄らせるいうことでまとまった。もマネージャー業やったらストレスはそないにならへんと思うし、大丈夫やろ。


「今日は疲れたなぁ」
『うん』
「風呂入る?先入ってええで」
『じゃあ入ってくる』


が席を立って風呂に行く前に何か書いとった。それを俺に見せへんでメモ帳を伏せて置いて風呂に行った。いかにも見てくれ言うとるようなもんやから、メモ帳を表にひっくり返してみたら一言、一言だけ筆記の時の急いだ字とは違っての本来の、落ち着いた字で書いてあった。


『ごめんね』



俺はそこのメモを切り取って、半分に折ってポケットに入れた。が戻ってきて、メモが無い事に気付いたらしいけど、何にも無かったみたいに俺に振舞ってきたもんやから、きっと俺へ当てた言葉なんやと、俺は確信した。



* * * 



「忍足、テメェ何日部活サボってやがる」
「ちょっ、堪忍したって跡部!今日は来とるやんけ!」
「胸張って言える事じゃねぇんだよ!」
「…まぁ、かくかくしかじかってよく言うやろ」
「訳分かんねぇんだよ。……大体理由は分かってはいるけどな」
「せやから、それまで部活もそんなに出られへん」
がマネージャーに来て久しぶりにまともに機能したんだが」
「せやかて、こんなもん書かれたら無理させるわけいかんやろ」
「……なんだよ、『ごめんね』って…」
「俺としてはこんな状態やから本当は外にも出したくないねん」
「お前の外に出したくないはいつもの事だろ」
「まぁ、それを言われたら終わりやけど」


は久しぶりのマネージャーを楽しそうにやっとった。いつもの活発な掛け声は聞こえへんのやけど。あのメモを見せたら、跡部はめっちゃ驚いたらしくて、最初言葉も失っとった。俺はこのメモを多分捨てられへんやろうな。いっそあの医者が言うとったみたいに二人で田舎に行ったろかとも思ってんねや。俺はそれでもええし。俺はそろそろ頃合やと思って部活も少し早めに切り上げてを連れて、家に帰った。が今度は『私、迷惑かな』って書きよるからそんなわけあらへん、て即行で否定した。そしたらが安心したみたいに寂しそうに笑うもんやからきっと『私、迷惑かな』て書いたメモはまた俺のポケットにしまわれるんや。俺のポケットはの苦しみを全部入れたる所やから。



* * * 



どうしても声が出ない。声が出なくなってから、忍足の家にお世話になり始めてからもう何日経ったかすら覚えていない。忍足には本当に迷惑をかけている。きっと忍足もあんなことを言ってくれたけれど内心、迷惑って思っているんだろう。もう、嫌だ。声を出したい。ちゃんと忍足と話したいし、いつか呼ぼうと思っていたのにこのまま「侑士」と呼べないまま終わるのは嫌だ。誰か、私の声を取り戻して、どうか


「ゲホゲホっ!」
!無理すんなて言うとるのに…」
「…ーー…っー」
「そんなに、話したいん?」


私は力いっぱい頷く。そんな事でしか意志を表せないのだから。
そうしたら私の口と忍足の口が重なった。まるで、喉に詰まっていたコルクが、溶かされていくような気分になっていった。空気がスゥーっと私の喉を駆け抜けた。


「お、したり…おし、たり…」
…声出るん?」
「出る…お、したり、忍足、忍足」
「せっかく出るようになったんやから名前で呼んだって」
「ゆ、し…ゆうし侑士」
「せや、上手やな」





(初めて聞いた君の声が僕の名前を呼ぶ声だといい)
喉の奥のコルク