・完全にオナニー行為なイケメンな俺×日吉です
・名前変換とかは無い仕様
・意味不設定があるかもですがそれは御愛嬌
・途中まで中途半端なエロ
・あまりすっきりしない

 1

 例えば。
 全世界の人類がマゾヒストなのだと言われたら、俺は納得してしまうかもしれない。自分は何て人間らしい人間、人間の中のまさに人間なのだと思う。と同時に、自分が人間から最も遠い存在ではないかとも思う。
 要するに、俺は変態という、それはそれで独立した生き物なのではないか。とてもとても不名誉な学名だ。それと同時に恐れ多くもある。
 変態とはかの江戸川大先生や、俺が敬愛する三島大先生にこそ相応しい。俺は今のところまだ椅子の中で暮らす境地には至っていないし、同級生の腋に絵画を感じた事もない。
 詰まるところ俺は巷に出没しているロリコン親父やらムッツリオタクやらの有象無象の性的倒錯者と何ら変わらないしょうもない存在なのである。
 しかしながらそうは言いつつ好きな奴だったら排泄物すらも愛せる自信がある点については愛の深さを褒めて欲しいと思う訳だよ、俺は。そもそも、そこらの一般的な思春期女子男子は好きな奴やアイドルを綺麗な存在と美化し過ぎている。俺に言わせれば、食事そして排泄という最も生物的なプロセスこそに官能があり、人間の一番美しい姿は裸体だ。
 まあ俺、そんな事よりやっぱ笑顔が一番好きなんだけどね。


 とは言いつつ、俺は今笑顔とは友達になれませんとでも言いたげな表情がデフォルトの後輩と二人きりで部屋にいる。
 ここは俺が跡部部長様々(と呼ぶととても怒る。ファンの子からは跡部様と呼ばれても得意げにしているくせに)から無償同然で借りている部屋であり、つまりは結構に豪勢な部屋だ。俺は面倒臭がりだしずぼらな人間だけれども、妙な所で綺麗好きな面もあり、散らかってないし物も少ないから部屋自体は綺麗である。存在を主張してるものと言えばそれなりの量のCDとDVD、そこそこの書籍とPC用品位だろう。
 日吉は、俺の万年床(俺は布団派だから)の横にある本棚を物色している。漫画もあれば小説もあるそこは混沌としている。元々本は好きな質なので日吉とはよく本の貸し借りをする。日吉にとっても、自分の趣味の布教先が欲しかったらしく、本の話をする時はいつもより饒舌になる。
「先輩、このシリーズってどこまで借りましたっけ?」
 日吉は本棚の京極夏彦の百鬼夜行シリーズを指差して聞く。そういえば勧めたら読んで面白いと言ってくれたのだった。
「えーと、多分貸してないの後は邪魅の雫だけだったよ」
「今日借りても大丈夫ですか?」
「全然オケーイ」
 俺は邪魅の雫という最新刊を本棚から出すと、机の横に掛かっていた本屋の袋に入れて日吉に渡した。別にそのまま渡してもいいのだけれど、寧ろ借りる側の立場で考えたら何か袋に入っていた方が鞄に入れやすい。はずだ。
 そのついでに鞄の横に置いたトートバックからタッパーを取り出す。日吉のお母様が作ってくれたおかず。
「ご飯、食べる?」
「そうですね」
 日吉は本を自分の鞄に入れて、立ち上がって台所の方に行った。
 箸を出したりする様子はまるで自分の家みたいにしていて、少し、照れる。俺もタッパーの中を適当な大きさの皿に移してレンジで温め、タッパーを流しに置く。洗うのは皿と一緒で良い。
 日吉のお母様とは、日吉が準レギュラーになってそこそこ頭角を現してきた辺りに仲良くなって、初めて日吉家にお邪魔した時に会った。玄関を開けるまですげえ厳しそうだと先入観があったし、ほら、何て言うかコミュニケーション能力が残念クオリティな人見知りな俺なので、緊張で心臓が爆発しそうになっていたのだけれどいざ会ったら日吉のお母様はとてもフレンドリーで優しい方で、当たり前の様に夕食をご馳走してくれた。「若ってあまり学校のお友達とか家に呼ばないから張り切っちゃうのよね」と言って日吉がそこら辺で、と止めるまで色んなものを出してくれた(俺は特別大食いなわけじゃないけど、ある分だけ食べるからお母様も大層喜んだ)。
 お祖母ちゃんものほほんとして優しい人だった。お祖父ちゃんはやっぱり厳しそうだったけれども、俺が挨拶すると横目でちらりと見て、「ゆっくりしていきなさい」と言った辺りすごく良い人だと思う。恐らくは今流行りのツンデレだとにらんでる。
 俺にとって一番緊張したのはお父様だった。すげえイケメンで、日吉はお父様似だ。けれど学校の話をポツリポツリとしただけだったのに、お父様は最近政治経済とか海外情勢に興味があるらしく、俺がヨハネスブルグが如何に危ないかを話したら一気に打ち解けて頂いた。嗜む程度に飲んでいた日本酒も進んだらしくて、仕舞いには今度来た時は古武術の指南をしてくれるとか。跡部ジムだけでなく日吉道場まで顔パスになりそうだ。
 まあとても快い夕食の席だった訳だが、夕食の片付けを手伝っていると、お母様が「一人暮らしって言ってたけれど、自炊はするの?」ときた。非常に耳の痛い話である。跡部にもよく言われている事だ。
 正直に「料理は、殆ど…」と言えば、驚いて俺の食生活を大変心配してくだすって、これからも足を運ぶように言われた。しかも初心者でも出来る料理の手ほどを教えてくれるとまで仰った。きまるで田舎の地域密着ドキュメンタリーを見ている気分(無論良い意味で)だった。日吉家に宿泊するのはお祖母ちゃんの発案で、流石に申し訳ないと辞退したのだけれど日吉のお兄さんが大学生になってから帰りが不規則だから中学生男子一人が泊まった所でいつもと何ら変わらないのだとまで言われては、意固地になって自分の部屋に帰る事もないかと思い、お世話になることにした。お兄さんの部屋を使えばというお言葉は遠慮して日吉の部屋に泊めてもらった。
 有り難いと同時に、日吉の家なのに日吉にどきどきしてしまった自分が酷く恥ずかしく思えた。
 それから、お互いの部屋を行き来する事が大幅に増えた。大層ご家族に歓迎されている(何故俺を気に入ってくれるのかは心底疑問である)ので、学生の外泊というよりは親戚や幼なじみが互いに行き来して泊まっていくような感じに近い。そんな経験ないから分からないけれど。
 それで、日吉の部屋に前回、多分4日前位に泊まった時の事だった。
 酷く、気分が高揚してしまった。
 チューだけだから、と口を日吉につけたら、日吉が怒らずに受け入れてくれて、ああこれ以上はまずいなと思いつつも日吉を抱き締めた。日吉は拒むよりも恥ずかしいと言いたげに「流石にここは、まずいので、次に先輩の部屋に泊まった時、でも、良いですか」と小さく洩らした。次を約束された気持ちは今受け入れられるよりも高ぶり、俺はその日碌に寝付けなかった。
 日吉は、どんな顔で欲情するのだろう。どんな声でセックスするのだろう。どんな目をして射精をして、どんな風に汗をかいて、
 男だから、女の子相手みたいな後ろめたさもないけれど、まあそれ以前に女の子相手のセックスなんて興味があまりないし、それでも日吉に対して色々と思う所があって胃袋辺りが口からこんにちはしそうだ。口が2つ付いてさえいればありがとうとごめんなさいをずっと繰り返していると思う。
「先輩?」
「…っああ、ごめん、ぼーっとしてて完全に別世界にいたわ」
 俺は既に温め終わったと電子音を鳴らしていたレンジから慎重に皿を取り、リビングのテーブルに置いた。床に直接座る高さの机だ。炊き貯めしておいた白米も温めて茶碗によそり、冷蔵庫の2Lペットボトルのどくだみ茶とコップ2つを用意する。
 日吉はお箸(ちなみにこれはうちに常備してある日吉専用箸である)を手に取り、小さいけれど綺麗に「いただきます」と言うのに倣って俺も声に出して言ってから料理に手を付けた。
 今日の晩御飯は、いつもよりあたたかいから、口の火傷に、気を付けよう。

 2

「先輩、料理はどうなんですか。もしかしてまだ出来ないんですか?」
「たまにしてるよ!本当にたまに、だけど」
 最近は日吉のお母様を手伝いつつ、生活に困らない程度の料理を会得してきた。それ以前に俺は断じて料理が出来ないわけではない。しないだけなんだ、うん。面倒臭いし。誰かが作ってくれれば良いと思う。千秋先輩みたいな。
「親子丼とかちょう得意だし、最近はやっとオムライスもそれっぽく出来るようになったし、後は…」
「全部卵料理じゃないですか」
 卵が好きだからと卵料理を一生懸命する俺を誰が責められようか。いや責められないと反語で否定する。コレステロールなどという言語は俺の辞書にはない。
 そんな他愛もない話をしている間に、洗い物を始め食事の片付けはすっかり済んだ。お風呂はご飯を食べ始める前に出したから、今は丁度良い具合になっているはずだ。因みに今の実家のお風呂は(親は転勤族だから定住ではない)、面倒くさい事にスイッチ一つで沸かせるタイプではないから、この部屋を借りた時は随分感動した。実家のお風呂はついぞ沸かし方が分からず終いである。
「お風呂、さ。先入って良いよ。俺、…布団、綺麗にしておくから」
 ドラマでも映画でも似たような台詞は沢山あるのに、実際自分が言うとなるとこんなに緊張するなんて思いもしなかった。俺は結構赤面症な所があるから、大分赤くなっているかもしれない。けれども日吉を見たら、それはまあ見事に赤くなっていた(特別色白とは言えない日吉があからさまに赤くなっているのだ)から、俺は自分の事を棚に上げて和んでしまった。
「あの、先に入るのは…その」
「俺だって嫌だよ。出て来てから待ってる間どんな格好をしてれば良いのか分かんないし」
「それはこっちの台詞ですよ!」
 そんな会話をしたらつい二人で吹き出してしまった。こうするとお互いに随分打ち解けたと感じる。こんな風にたまにいきなり自分の人間関係を客観視してしまうのは前からの癖だ。
 実に民主的な方法であるジャンケンでお風呂に入る順番を決める事にした。俺は先輩なんだから譲れよ!と理不尽なジャイアニズムを振りかざそうと思ったけれども、今後の行為に於いてお世話になるのも俺であり、一応思慮の深い人間であるつもりなので、ジャンケンを提唱したわけだ。古代ギリシャでは籤引きで政治家を決めていたとある人は言っていたから、民主主義というのは時に酷く残酷である云々。
「恨みっこなしだかんな!」
「先輩の方がねちっこそうじゃないですか」
「はいうるさいよージャン、ケン、…」
 ポン!と出した瞬間それはもう運命の非情さを思い知った。嗚呼無情、下剋上。
 給食の余った人気メニューを争奪する小学生男子の如く気合いを入れたのに(因みに荒波立てたくなかった俺は納豆位しか貰いに行かなかったけれど)。ちくしょう。
「じゃあ先輩が先に入って下さい」
「えっていうか何、これ出たらやっぱり裸で待ってるべきなの?」
「しっ、知りませんよ!自分で好きにすれば良いんじゃないですか!」
 俺は本でも読んでますから、と日吉は晩御飯の前に貸した邪魅の雫を鞄から取り出して読み始めてしまった。仕方がないから、本当に仕方がないから、クローゼットから下着とパジャマ代わりに着ているジャージを出してお風呂に行くことにした。余談だけれど、生まれてこの方箪笥しか使った事のなかった俺にしたらクローゼットってすげえって思う。ついでに、日吉が泊まりに来る時にはいつも使うジャージと下着も出してあげた。クローゼットの一角には、いつ泊まっても良いように日吉用の衣類が抜かりなく常備されている。泊まる回数を重ねる毎に家に増えていく日吉の私物が、すごく、よろしいと思う。
 お風呂の脱衣所に入って、そこにあるラックからバスタオルを取り出す。バスタオルは三枚あって、二枚は俺用、一枚は日吉用だ。同時に日吉宅にも俺用バスタオルがあったりする。取り出したバスタオルは、日吉宅にあるバスタオルよりもずっと薄くて、良い匂いもしなくて、少しだけ残念な心地がした。日吉宅と俺の家は通学に使う駅一個分離れていて、氷帝の最寄り駅から日吉は二つ目、俺は三つ目で降りる。とは言え、実質二つ目の駅と三つ目の駅の間はすごく近いから、正直徒歩で行き来出来る距離である。因みに忍足宅が俺の家ととても近いと知った日吉が泊まりに来るのを渋ったのは随分前の話だ。
 制服と下着を脱いで、洗うものは洗濯機に入れて、お風呂の扉を開けた。
 頭を洗う。手つきはあまり丁寧ではない。前に合宿に行った時に宍戸に「だからいつも髪がはねるんだろ」と言われた。宍戸に言われちゃあ何も言い返せない。でもお風呂出てからドライヤーを使って乾かしてみても、トリートメントとやらを使ってみてもはねるものははねるんだから仕方ない。忍足だって変わらないし。
 体を洗ってから(いつもより念入りに洗ったのは言うまでもない)、バスタブに入る。お湯に浸かると、色んな事が走馬灯の様に頭の中を駆け巡る。俺の脳味噌は人生の中で塵芥の如き価値も無いような記憶ばかりを毎夜毎夜飽きる事なく夕方のドラマ同様再放送しやがってくれて、ご苦労な事だ。再放送はせめて中学校入ってからにしてくれよ、弱っちいお味噌め。それより前だと「あれは楽しかったなあ」なんて感慨深く思える記憶が正直殆ど無いな。雀の涙、猫の額程度で良いから覚えておけよ、弱っちいお味噌め。風呂は命の洗濯だと言ったのは葛城三佐だが、それにしては随分スペックの低い洗濯機だと思う。漂白剤は、あまりきかない。
 あの時、跡部が氷帝に入れよと無理矢理に誘ってくれなかったら全くどうなっていただろう。人生万事塞翁が馬というのは全くその通りだよ、忍足。
 温泉含めお風呂を夏に汗を流す以外で気持ち良いと自覚を持って楽しめない人間なので、正味大した時間も入らずに出てしまう。薄っぺらいバスタオルで体を拭いて、下着とジャージを身につける。頭も拭くけど、面倒臭いからあまりしない。俺にとっては一日のルーチンの内一、二位を争って面倒臭い作業だ。
 髪を乾かすのを中途半端にして、バスタオルを肩に掛けたまま脱衣場からリビングに戻る。
「出たよー」
「あ、はい。…先輩、いつも髪をちゃんと乾かすように言ってるじゃないですか」
「だって面倒臭い…」
「横着しないで下さい。俺が出るまでに乾かしておいて下さいよ」
 お前は俺の母親か。風呂に向かう日吉に思う。ああ、でも日吉が母親ならとてもしあわせかもしれない。勿論言われた通りに髪を乾かす事なんてしない。そうすれば何だかんだと不平不満を述べながらも日吉がドライヤーを持って俺の頭のアフターケアをしてくれる事を俺は知っている。普段はいちびりで口先がそこそこ達者な横着者癖に甘えるのが滅法不得手な俺の、唯一の矜持だ。
 そんな訳で俺は濡れたままの髪の毛を放置して、少し乱れていた布団を綺麗にした(因みに跡部家のマンションだから部屋も何個かあるけれど使わないから広めのリビングに机もパソコンやテレビも布団その他も置いてしまっている。ダイニングテーブルを置いていないからスペースにはゆとりがあるし)。妙に心臓がそわそわしてしまって、俺はとりあえずイヤホンを耳に突っ込み、携帯のLISMOで音楽を聴き始めた。けれども、マイフェイバリットソングですら歌詞がふわふわ頭を通り過ぎて行って、ああもう日吉早く出て来いよ。まだ入って五分も経ってないけれど。
 もういっそどきどき、というより動悸に感じられ始めた頃、いきなり携帯がバイブを鳴らして来たから死ぬほど驚いた。メールを見たら岳人からで、それは大層どうでもいい内容だったからこちらも大層どうでもいい内容で返信をした後、マナーモードをサイレントに切り替えた。
「はあ…やっぱり乾かしてないんですか」
 そう言ってドライヤーを片手に日吉が出て来た。日吉は少ししっとりした、それでもきちんとした髪である。「うん、面倒臭かったし…」と答えれば諫めるような溜め息をつきながらもドライヤーのプラグをコンセントに挿して、早くして下さいと俺に手招きをした。
 俺の髪の毛を乾かす日吉の手は綺麗で、けれどもスポーツをしている男の子の手で、掌は俺の手よりも温かい。
 こういう事をさ、覚えておいてくれよ、俺の脳味噌。

 3

 二葉亭四迷か誰かは、アイラブユーを「死んでもいい」と訳したという。何という言葉選びのハイセンスさ。時代を先取りし過ぎている。
 俺はまるで切れかけた蛍光灯のような生活を送っていた。点灯している間は辛うじて点いている(それでも結局虫に集られている)けれど、そうでない時はぱたりと音沙汰もない。
 元々、中学校は私立に進学するつもりではあった。だからと言って、別に特別な上昇思考があったからという訳ではなく単純に公立に行きたくなかったからで、だから県内の良心的な授業料でそこそこ優秀な、それでも自分の能力で確実に行ける範囲の学校に行く予定だった。勉強はしてもそのために好きな事は我慢したくなかったからテニスは普通にしていた。小学六年生の頃、創立記念日で学校が休みだったから家から遠い東京のストリートテニスに勝手に行ったら、見たことのない(当然だ)小学生がいた。少しだけ外国人ぽいすげえ綺麗な顔をした男子で、でもそれ以上に「こいつ暇人だな」と思って凝視してしまった。だって平日の午前中なのに悠々とテニスしている奴って俺を含め暇人でしかない。俺が見ている事に気付いたらしいそいつはずかずかと俺の前にやって来て「何か用か」と居丈高に言いやがった。その慇懃無礼な態度は別に構わないのだが、そもそもそれ以前に知らない人間に話し掛けられるのが困る俺は苦し紛れに「平日なのに、学校休みなのかなって…」と言った。するとそいつは更に失礼極まりない事に、大爆笑しやがった。
「…っ、ハハ、傑作だ…!!」
「何…何も面白い事言ってなくない…?」
「俺のけだかさに見とれなかった奴は初めてだぜ!!」
 気高さ、の発音が若干たどたどしいのは目を瞑るとして、あからさまなナルシチズムな発言に俺は寧ろ清々しい好感を持った。態とらしく小者を装って卑屈に生きているよりずっと良い。
 そいつは俺が程良く相槌を打ってやっているのを良いことに、ペラペラと話し出した。つい最近までイギリスにいたこと。日本の中学校に通う為に日本に来たこと(じゃあ後数ヶ月でも日本の小学校通っておけよ)。東京の氷帝学園のこと。
 その後俺達は他に人も疎らで、いるのは趣味で来ている主婦や老人位だったから優雅にコートを独占して打ち合いをした。楽しかった。知らない奴だからこその心地良い距離感や礼儀がその時の俺にとっては何よりも楽に感じた。何度も何度もラリーをして、偶に不意打ちでスマッシュを決めてみたりした。
 気付いたら結構な時間が経っていて、俺達は休憩する事にした。
「お前、中学はどこ行くんだよ」
「うーん…多分県内の私立」
「私立に行くのか?」
「だって公立行きたくないし」
「私立なら氷帝に来いよ。最高の環境でテニスが出来るぜ?」
 そいつが綺麗な顔で、すごく綺麗に笑うから(別にそういう感情は全く生まれなかったけれど)、多少の罪悪感が無いことも無かった。だからと言って何か変わる事もなく、俺は答えたのだった。
「別に悪くはないけどお金がかかるから行かない。それに俺趣味の範囲でやっていたいから部活でバリバリテニスしようともあんまり思ってないんだ。申し訳ない」
「…」
 そいつは黙り込んでしまった。プライドが高そうな奴だからもしかすると怒らせてしまったのかと少し不安になる。
「金ならある程度の援助はするぜ。元々私立中学に行こうとしてる奴だ、全く無理って訳じゃねえんだろ?それにテニス部に入っても公式戦に出なくたって良い。他の奴の指導でもすりゃあ十分だ。俺が許可する」
 こいつは部長云々以前にテニス部員、ましてや氷帝学園の生徒ですらないのに何を言っているんだ。とは思ったがとりあえずは話を聞こうと思った。
「氷帝学園は名前だけが一人歩きした似非金持ち学校とは違え。授業料だって驚く程馬鹿高い訳でもねえし交通費がネックだってんならうちのマンションの一室を貸してやっても良い」
「それでそっちに何のメリットがあるの?」
「あーん?俺は損得で動く人間じゃねえよ。お前にそこら辺の中学校に行かれたら俺に丁度良いラリー相手がいなくなるだろうが」
 そしてそいつは綺麗に顔を笑いに歪めて言った。
「この俺様、跡部景吾を信じるんだな」
 その物凄く腹の立つ跡部様々のお言葉を、その時は信じてみようと思ったのだった。
 そして今に至る訳だが。
「先輩」
「ん?」
「何またぼんやりしてるんですか。髪の毛乾きましたよ」
 日吉はドライヤーを片付けながら咎める様に俺に言った。日吉は俺がぼんやりしているとすぐに辛辣な言葉を投げかけてくる。そこが可愛い所でもあるがもう少しデレるべきだとも強く主張したい。insist onだ。俺が徐にちょっかいを掛けようと日吉を擽ろうと手を伸ばしても身軽に避けられてしまう。
「くだらない事、考えてたんでしょう?」
 真っ直ぐ目と目を合わせて話す日吉の、鋭いけれど大きな瞳に、普段通りのごまかしだらけの対応が出来なくなってしまう。こういういざという時に、日吉は際限なく男前である。そしてそれは、俺が常に俺たる所以を包括し、時には酷く呵責し、また時には優しく融解してしまうのだ。俺はその指を唯、生まれたての乳児の如く握るしかない。ああ、こういう反応を何と言ったっけ。とにかく、日吉は厳しい分だけ、とてもとてもやさしいのだ。
「いやあ、一年の時はあんなに敵意剥き出しだった日吉とねえ…こんな事になるなんてわたくしも思わなんだ」
「その口調は何なんですか。もしかして、先輩の方が緊張、してるんですか」
「このドキドキとときめきを生涯大切にしていきたい」
 思えば、俺にテニスを教わりに来た後輩は結構いた(多分俺が暇そうにしていたからと跡部の差し金だ)けれど、俺に試合を申し込んで来た奴は日吉が初めてだった。尤も、日吉と試合はしたが日吉を日吉として初めて認識したのは俺が三年に上がってから部活をサボっているのを日吉が跡部に言われて呼びに来た時である。
 一段落して俺は本気で緊張した手を日吉の肩に伸ばして、やんわりと布団の上に押した。日吉の抵抗は無く、良く分からない表情で俺を見上げる日吉の上に、四つん這いになる。
「あの、今から、しようと思うんだけど」
「もう…聞かないで下さい…こっちがいたたまれなくなるんで」
「うん…ごめん」
 すると日吉は俺の口に手を当てた。
「謝るのも、無しで」
 俺は日吉に頷き、口に当てられていた右手を左手で握る。それから唇を押し付けて、離したりくっつけたりを繰り返す。息が持たなくなったりして、それでも何度も口を合わせるから、お互いの唾液が混じって交換される。俺は唾液が少ないからあまりさらさらとしていないのに日吉のは決して多くはないけれどさらさらとして冷たくて、口に入るとこれが日吉の唾液かとしみじみと味わってしまう俺はやはり三島大先生と魂を同じくしているのだろうか。何て恐れ多い事だ以下略。俺は調子に乗って日吉の唇を舌で舐めたりしているから互いの口の周りがべたべたになってしまった。咥内の体温が気持ち良くて、舌を入れ日吉の舌に触れた瞬間日吉の舌はびくりと奥に引っ込んでしまったけれど、少ししておずおず応えてきてくれたので、俺は大層興奮してしまった。
「…っふ、」
 日吉の鼻から抜ける声が耳をぞくぞくさせる。触りたい。もっと日吉に触りたい。
「日吉、脱がせても、良い?」
「良いですけど、自分で脱ぎます。ていうか、だったら先輩も脱いで下さい。そうじゃないと、…フェアじゃない、です」
 拗ねた様に言う日吉があんまり可愛いから、あまり躊躇いもなく脱ぎにかかった。俺はともかく日吉までもが脱いだ衣類を乱雑に布団の横に放り出した。そして再び日吉の肩を持って布団に押し倒す。長い前髪の隙間から覗く目。仄かに紅潮する頬。しなやかな筋肉。それから欲情している事が伺えるそそり立った性器。文学的な表現を使ってみたとは言え、AVにいるような男の肉欲を煽る女みたいな所は一つも無いし、柔らかさも無いし運動をしている男の体だ。それでも、どんな物よりも確かに官能的に感じられた。
 日吉は、とても綺麗だ。

 4

 それは突然に襲ってきた。
 俺が。もし汚らしく壁を這い回る蛞蝓や女王の為に働くだけの社会主義的な蜂だったなら、こんな虚しさを覚える事も無かったのだろうか。億や兆では表し切れない程の内の、ナノ単位にも満たない一部屋で、銀河に放り出される様な気持ちになる。消滅する事のない国境と同様、セクシュアルというのは時にジェンダーよりも残酷だ。
 振り返れば振り返る程、背後に待ち構える虚空は膨大で、晩夏の日差しの如き陰鬱な雰囲気を醸し出す。いっそもう、消化分解させてくれれば良いのに、目の前にいる凛とした男はそれを許さない。
「綺麗だ、すげえ興奮する、でも、出来ない」
 押し倒して、黙り込んで、漸く口にしたのがそんな情けない台詞だった。要するに怖じ気づいたのか、否そんな事は無い。全く無い訳ではないけれど、それ以上に俺には懸念すべき事柄があったのだ。
「どうして、こんな今更、」
「ごめん、謝るなって言われたけど、本当ごめん日吉」
「…俺が聞きたいのは謝罪じゃないんです」
 俺は、顔が上げられなかった。元は自分で蒔いた種。無責任にも程がある。でも、もしかしたら、日吉も俺を嫌いになるかもしれない。きっとまた繰り返すのだ。輪廻転生、俺もまだまだ中二病だったのかもしれない。ローリンボーイ。
「…あー…その、なに、日吉は、男の子じゃないですか…で、俺も、男なわけで」
「その通りですが」
「だから、ほら、…将来、日吉が結婚とか、する時に、…男とそういうのあるのは、ちょっとあれかなって…」
 素っ裸でしどろもどろに言い訳をする俺はとても惨めで、それはそれで俺なんかには丁度良いのかも知れない。意味もなくそれなりに伸びた身長も、何もかもが矮小なものに見えて、いっそこの場でこの童貞野郎と声高に罵ってもらいたい。ここで更に包茎ってステータスでもあれば罵詈雑言は倍増可だったのに俺の憎いあんちきしょうは綺麗にその坊やの皮を打ち破って成熟している。修学旅行や合宿の大浴場ではあんなに役に立つ我が息子もこんな時は木偶の坊も良いところだ。アメニモマケズ。
「よく考えたらさ、俺、日吉の事すきだけど…日吉には普通に、幸せになっ」
「それ以上、」
 日吉が如何とも形容しがたい顔で俺の言葉を遮った。
「それ以上、言わないで下さい…」
「なって、欲しいんだよ…」
 日吉の、失望した目をしていたらと考えるとそれを見たくなくて俯いていると目の前がぼんやりとしてきた。どうしよう、どうしようの堂々巡り、終ぞ最期の審判は目の前の男に委ねられたとばかりに俺は全く無責任でどうしようもない人間である。
「本当に、仕方のない人ですね」
 日吉は、いつも少しだけ高い事で言った。
「俺は別に、先輩の事をそういう意味で好きだったわけじゃあない」
 俺はその言葉の意味する所を知っている。日吉の意図が分かる。
「だから、先輩と俺が性行為に及ぶ必要性も皆無で、俺達は少し親しい先輩と後輩なんですよ」
「ひよし、」
「これからも家には来て下さい。あなたの事だからもう来ないとか言いそうですけど放り出して先輩がまともな食生活を送れると思えませんし、母は普通に心配します。京極シリーズの新刊も貸して頂かないと俺も困ります」
 こんな人間には二度と巡り会えないと思った。だからこそ、日吉は俺なんかに構ってちゃあいけない。日吉は然るべき道に戻らなければいけないのだ。
「まあ根暗でどうしようもない先輩は俺の結婚式で10分間きっかりスピーチをして下さいね。それで水に流してあげますよ」
 きっと、これで良かったのだ。意地悪で優しくて、俺の大切な後輩は、幸せにならなくてはならない。そして俺は、今までの幸せすぎた日々に怖くなった、しあわせの後はふしあわせが待っているように思えて、俺はいっそしあわせを手放した方が良いのではないかと確信するようになっていた。そんな、しあわせでも、ふしあわせでもいたくないという俺の曖昧なエゴイスティックに日吉を、飲み込んでしまいたくない。
 それから俺達は服を着て、いつもの泊まりの様に、同じ布団で程よい距離を取って寝た。考え込むと滅法寝付けなくなる俺が、不思議と夢さえ見ずにぐっすりと眠りに落ちた。

 それから暫くして、日吉に彼女が出来たと風の噂に聞いた。部活で日吉に会った時に問うてみるとそれは事実だった。
 彼女は俺と同じ三年生の、男子テニス部の仮マネージャー(いつもいる訳ではないけれど、他校との練習試合がある時等は円滑に事が進む様にマネージャー業をしてくれる)で、図書委員の女子らしい。そう言えば何度か練習試合の時に話した事があるのを思い出す。決して目立つタイプでは無いけれど、埋没してしまうのは惜しい位には可愛らしい愛嬌のある子だ。つまりは、俺が内心最も苦手意識を抱いてしまうジャンル(それは無論俺が勝手に考えているだけである)。
 彼女から告白したそうだ。なる程、あの日吉を見初めるとはなかなかに目利きであったらしい。
 放課後、珍しく部活に出席した俺は忍足にラリーを申し込んだ。忍足は同じクラスで、お互い転勤族であった事やどことなく同じものを感じた彼とは自然と親しくなった。負の会話を、お互いに含む所が無く交わす事が出来る忍足の存在は、多分きっとこれからも無くてはならないものに違いない。
「本当、珍しいやんな、自分が真面目に練習とか」
「自分でも分かってるよ。何て言うの、俺はこれから熱血スポ根キャラになるんですうー」
「嘘やろ」
「当たり前でしょうに」
 忍足とコントの如き会話を交わす。忍足の厚ぼったい二重の目は俺のラケットを顔をちらちらと見て、ボールを一つ持ってコートに入る。忍足のサーブは温い、心地よい温さだ。まるで、何とかおばさんのシチューの様な、ええと何おばさんだっけかな。ステラおばさんはクッキーだ。
「なあ、」
 暫くラリーを続けた後忍足がボールをスルーしやがって、ラケットを持つ腕を下ろして、比較的大きな声で話しかけてきた。
「何?」
「今日、終わったらラーメン食べに行かへん?三年で」
「良いけど、いきなり何だし。ていうか今日お金あんまり持ってないんだけど」
「今日の自分位なら奢ったるって」
「奢ってくれんの?じゃあラーメンじゃなくてロイホで食べたい。ロイホのキングオムライス」
「自分なんかずっとラーメン屋でトッピングだけ頼んで食うとき」
 他のコートにいたレギュラーではない子達は苦笑しながら俺達を眺めていた。少し肌寒い空気が肌をなだらかに流れていく。忍足の髪の毛は本当に鬱陶しいなと思いながら、 忍足がこちらのコートに入って来るのを他人事のように見ていた。
「ま、懸命な判断やったと俺は思うで」
「どこで聞いたんだよ」
「あっちのご本人様々や。一応、気にかけとったで」
「それを言うのに忍足をチョイスした辺りが分かりすぎててつらいよね」
 俺の頭は、故意に今日のラーメンはどの種類にしようか決める事に専念しようとしていたから、わすれていたのだ、多分。俺は生憎数式を愛する博士ではなく、且つ一万と二千年前から男を愛していた何処かの天使(男)と同じ程に粘着質さでそういう類はなかなかどうして記憶力とは音楽性の違いとか言って決別、なんて事にはなってくれない。生まれ変わった暁にはフランスでオーケストラの指揮者になるつもりであるからそもそも俺の中で音楽性が違えるはずは無いだろう。
「ねえ忍足」
「ん?何や?」
「俺さ、今キャンペーンでやってる川越シェフの味噌ラーメン食べたい。後餃子も食べるから」
「はいはい」
 忍足は、本当のおかあさんの様に笑った。ラーメンを食べ終わったら、カラオケにも行って、GLAYでも歌おう。

「忍足、ゴチになります」
「おん、気にせんでええって」
 岳人とはカラオケに行ったらあれ歌おうこれ歌おうと盛り上がりながら俺達は暗くなった道を歩いた。
 その時だった。一人の学生とぶつかったのは。
「あ、の、すいません」
「別に。こっちも不注意だった」
 それだけを、くせ毛の彼は俺の目を見ながら言った。不機嫌で生真面目そうな彼の、大人びているのにくりくりとした目を忘れられなそうだ。彼は本がぎっしりと詰まって大層重いだろうクリアケースと鞄を抱えて颯爽と歩いて行ってしまった。
 彼の名前が後藤さんと言うのだと知るのはその六年と少し後だった。


終わり


仕様のない後日談

 寒い。手の芯から冷え切って、どこにも触れられなくてまた冷える。目が冴えて何とも言いようのない高揚感が心臓をばくんばくんと動かす。別に気分が良い事なんて一つも無かったのに、内臓だけが体を置いていく。
 それでも強制的に朝は来て、正直に言えば頭は重いしだるいし、倦怠極まりない気分だ。体は至って健康なのが寧ろ都合が悪い。
 二度寝したらもう起きられなさそうだったから、いっそのこと起きて学校に行く事にした。朝練に出るのは億劫だけれど、一人の教室に居るのもいたたまれなくなる。観客席(校内のコートに必要ねえだろっていつも思う)でだらだらしていよう。
 通学中は必ずイヤホンを耳に突っ込んでおく。音楽に対して素晴らしく造詣が深い訳じゃあない。ただ、こうしていれば余計な事を、つまらなくて、何処にも吐き出せない事を考えなくて済むから。
 寒いから(寒くなくてもだけど)、レギュラー用の部室に我が物顔で入って着替えを済ませる。一番端のロッカーを使うのは俺の遠慮心だ。まだ誰も、いない。誰もいないのに外に出るのは面倒くさいから跡部のソファーに寝っ転がってまたイヤホンを耳の穴に入れた。B'zはすごく好きだけれど、今の気分じゃない。
 扉が開く音がした。怖いから、振り返らない。
「お、どないしたん?こんな早く…明日は雪やろか」
「忍足…お前まじ失礼だな。ていうか今日忍足も早いね」
「姉貴がバイトやから早く起こせ言うてきて、俺が早く起きなあかんかったんや…そのまま俺も家出て来てん」
 見上げると、忍足が顔を覗き込んで来た。朝から見るにはあんまり爽やかじゃないが、安心する顔だ。まだ眠いのか厚ぼったい瞼が更に重そうだ。
「忍足目開いてる?」
「それこそ失礼やなあ…開いとるって」
 忍足はロッカーをごそごそしながら顔だけこっちに向けて目を見開いて来た。うわ、久し振りに見たその顔。忍足の着替えを凝視しても仕方ないので、携帯の画面を見つめていた。ごそごそ音が立っていたのが止んで、忍足が着替え終わったんだって分かる。忍足、と呼び止めると忍足は体ごと振り返って何?と皆と違うイントネーションで返事をしてくれる。
「なんでもない」
「一体何やねん」
「ごめん、何言おうとしてたか忘れた」
「…あんま、」
 耳から流れる音楽が違う曲になったせいで忍足が何と言ったのか聴こえなかった。ただ忍足の口元だけが、笑っていたのが見えた。

 放課後、今日は部活が無い日だ。ある日も毎回行ってる訳じゃないけど。
 真っ直ぐ帰る気も起きず、本館と特別教室棟の間の庭にある誰もいなさそうなベンチに座ってぼーっとしようと思った。ぼーっとすると言っても頭の中を無にする事は出来ない。雑念に満ち満ちた人間だから、仕方ない。
「ねえ、」
 最初は、自分だと気付かなかった。周りに人がいないのを理解してから、俺に話し掛けているのだと分かった。首だけで振り返るとそこには、日吉の彼女がいた。
「今からすぐ帰るの?」
「まだ、だけど」
「じゃあ少しだけ、話して良い?」
 こういうの、すごく苦手だ。何の話か全く知らないのに、絶対に悪い話の予告なんだとしか思えない。
 目先にベンチがあるのに、彼女は立ったまま俺の目を見上げて来た。小さい体に、大きくてきらきらとした目、世間的に見たら可愛らしいのだろう。そんなの知らないけれど。その小さな彼女は、今の俺にとっては恐ろしくて恐ろしくて堪らない。
「なに話って?練習試合のお知らせか何か?」
「ちがうよ、あなたの事」
「だって、俺の事の何を話すの?」
「日吉君に聞いたんだよ。あなたと、日吉君の…」
 今更、何を掘り出したら良いんだろう。疚しい事が幾つも折り重なっているのは分かる。
「日吉が話したの?ゲイの先輩に付き合わされてたって?」
「そんなっ…言い方じゃ、ないよ」
 確かに、苛々していた。何故だか分からないまま、とめどなく、行く宛てもない苛つきを彼女にぶつけていた。彼女が少し申し訳無さそうに眉を下げるのも神経を少しずつ逆撫でする。これだから女の子は、好きじゃあないんだ。
 駄目だ。ここでボロを出したら、また昔の生活に戻ってしまう。下らないと思ってせっかく捨てたのに、また拾う羽目になる。
 幸い、どちらかと言えば理性的な方だ、だから今の内に、もう解放して欲しい。
「私、あなたに偏見持ってないからこそ、言いたい。日吉君に、あんまり、親しくしないで…」
 余計な小細工を含めないで、単刀直入に言われた。目が、彼女の目が、俺から逸らされる事は無い。頭が痛くなる。
 もう日吉とは、そういう関係じゃあないし、本当にそういう感情も抱いていない。彼女の気持ちが分からないでもない。ああ何だか、思考が否定文の形ばかり取っている。俺は無意識の内に、しきりに手を握ったり開いたりしていた。何て、何て言えば良い?分からない、まるで失語症を患ったかのように、言葉が全く出てこない。
 自分では、最良の選択を結局何も考えられない愚かしい奴なのである。
「何、で?俺は日吉とは今後そうはならないし、日吉はゲイじゃない。今はもうあなたと幸せなんだからそれで良いじゃないか」
「分かるよ、でも、彼氏が前に付き合ってた人と仲良くしてるのは、やっぱり不安だよ。分かるでしょ…?」
「だから、何で今更そんな…」
 意固地になって日吉と親しくしたいから、こうしてるのではない。彼女が、無自覚に俺に追い討ちをかけてくるから。彼女が、無自覚に自分を被害者だと位置付けているから。
「日吉君は優しいよ、だからあなたの事も悪く思わないでって、言ってたよ。でも、あなたは日吉君と間違った方向に行こうとしたんでしょ?もう、良いでしょ…?」
 彼女の目から涙が零れ落ちるのを見て、俺の中で彼女の評価が、勝手に、ああこいつ無理だな俺、ってなった。
「何なんだよ、」
「え?」
「お前、前から日吉の事好きだったんだろ?俺、かませ犬になってやったじゃん、何か問題あんの?ねえ、泣けば良いと思ってる?日吉が助けて、慰めてくれると思ってるんだ。皆皆お前の事助けてくれるんだ。そしたらまたへらへら笑うんだろ?だから女って嫌いなんだよ!」
 気付いたら、右手を握り締めて振りかぶっていた。
 相手に危害を加えるのが、自分の防衛策なんだと勘違いしている自分が抑えられなかった。その右手が、目の前の女にぶつかる事は無かった。
「それ以上は、あかん」
「お、したり」
「なあ自分、怪我は」
「忍足君…私は、大丈夫」
 忍足が俺の腕をぐいと掴んで忍足の背中の後ろに俺を隠した。
「悪いんやけど、自分女の子やろ、あんまりこいつにダメージ与えんといてやって」
「私は別に、」
「こいつも、全部キミが悪いなんて思ってへんから、な。堪忍したって」
 俺を責める言葉は一つも吐かずに、女にじゃあ、と言って俺をそのまま引っ張って行く。感じ的に部室に向かっているらしい。怖くて、忍足の顔が見られない。
 黙っていると、忍足は深刻そうでない声で、前を向いたまま言った。
「俺達にはもう、また次、ってのは無いんやで。ここで、終わりなんやから」
「忍足、俺、」
「そこは、気を付けないとあかんねんで」
 話し方は優しかった。本当に、母親が子に言い聞かせるような、そんな話し方。忍足がいなかったら、俺はどうなっていただろう。
「まあ、俺はそこん所ちゃんと、分かっとるから」
「…俺、今なら忍足に抱かれても良いよ」
「あんまり欲求不満になったら考えておくわ」
 真剣な態度を取り切れない俺の発言を、ちゃんと分かってくれる。それを俺も分かっている。

「跡部…」
 部室の中には俺が朝に拝借していたソファーに跡部が座っていた。制服のまま、ふんぞり返っていて、跡部は跡部だ。忍足が手を離し、ちょっと出てくるわ、と俺を置いて部室を出て行った。
「まあ、座れよ」
「良いの?跡部様専用ソファーに座っても」
「この機会に座っておかねえと一生座れないかもしれねえぞ」
 朝使わせて頂いたんですけどね。
 跡部が少しずれたから、その跡部の隣に座る。座ったは良いけれど手持ち無沙汰で、携帯をポケットに入れて置けば良かったと思った。携帯が入った鞄はベンチの所に置きっぱなしだからもしかしたら忍足はそれを取りに行ってくれたのだろうか。
「ほらよ」
 目の前(ちょっと目に近過ぎる)に跡部が缶ジュースをいきなり差し出して来たから素で驚いて、うわぁ、なんて間抜けな声を上げてしまった。
「マックスコーヒーだ…」
「お前好きなんだろ?俺にはこんなに甘くて安っぽいやつのどこが良いのか分からねえがな」
「甘いから好きなんじゃないよ。俺、甘いもの自体はあんまり好きじゃないし」
「飲むのか飲まねえのかどっちかにしろ」
「飲みます頂きますうー」
 手にしたそれは、まだ温かい、一番好きな温度だ。プルタブを持ち上げた瞬間、跡部が俺の頭もぐしゃぐしゃとしてきて、コーヒーが零れそうだと本気で焦った。
「な、に」
「俺にはお前を連れて来た責任があるからな。拾いもんは最後まで責任を持つ主義なんだ」
「本当だよ…ここで捨てられても、もう病院位しか行く所無いじゃん」
「俺が拾った以上は完璧にならねえと許さねえよ」
 跡部らしいや、と俺はコーヒーを飲んだ。忍足が戻って来たら、コーヒーを半分分けてあげよう。とても優しい彼らに、俺が出来る事は何だろう。
 この最低でどうしようもないゲイの俺も、人のしあわせを素直に願えるような、そんな人間になれるだろうか。そんな日が、いつか来たら良い。

おわり