幼い日に
サンタさんはいないんだよと言われるより

今になって
神様はいないんだよと言われる方が

苦しい
苦しかった

信じてなかったけど
信じてたから



ある大学病院の精神科。そこは病棟が一般病棟から若干離れている。
内部は決して錆びれた廃墟のような雰囲気がするわけではないが薄暗く気分の良いものではない。飾り気のない廊下やフロントは病院特有の匂いが充満している。
そこに入ってきたのはおよそ場違いな明るい毛の色をした青年である。
受付の女性が彼に気付くと青年は礼儀正しく会釈をした。
「千石です。母がいつもお世話になってます」
「清純君、今日もお母さんのお見舞い?偉いのね」
「いえ、これ位普通ですよ。それにこうして来た所で俺は何も出来ないですし」
「お母さんはいつもの部屋よ。何かあったらナースコールね」
「はい。ありがとうございます」
千石は持ち前の笑顔を女性に向け薄暗い廊下を奥に向かって歩き出した。その様はまるで怪我をして少しの間だけ学校を休んでいる友達をからかい半分にお見舞いに来たかのような感じであり、母親が精神科に入院しているのを見舞いに来たとは思えない。
精神を病む者が心を癒すために入る所、飾り気がないのは僅かな装飾でも自殺行為を起こす患者も少なくないからだ。
無論、心を癒すと言っても名ばかりのことも多く、一旦改善したように見えても心に深く根付いた傷は癒える事は少ない。ここに入る理由は人それぞれだ。家族に入れさせられるケースが大半でその場合家族も相当やつれて、患者本人のために幾度と無く苦労を重ねてきた。そして家族さえも入院した方が良いのでは、と思わせる。
しかし千石にはそれが無い。
否、正確にはそう見えた事がない。
人の心の闇は深く、それが見え隠れしたとき、恐ろしい存在となるものが千石はそれが逆に見えない所が人を惹きつける所であり、恐ろしい所でもある。
人気のない廊下に千石は自分以外の気配を感じた。それは今まで感じてきた俗世界に塗れた卑しい人間の気配とは似て非なるものがあった。
少し伏せていた目を上げるとテニスの大会で顔を何度か見た事のある人物がいて、意外に感じる反面何処か納得できる箇所があった。
「何で忍足クンはこんなとこにいんのかなー?見た目めちゃくちゃ健康優良児だよー?」
いつもの少し間延びしてお調子者を思わせるが憎めない口調で言った。
「自分は…ああ、母親やろ?101号室の千石て」
「まーね。忍足クン君も僕もまだ高校一年生なのにキミは何で白衣を着てるの?」
「あー、めっちゃ男前やろ。俳優もびっくりや」
「白衣でファッションショーはないなぁ」
「そら言えるわ。これはちょっと戯れ。別に何してる訳でもないねんで?親父がここに働いとるだけや。ほな、また会うかもしれへんな、じゃ」
「バイバーイ」
父親という言葉に少し反応はしたが、もう大分気にしない、というよりどうでも良くなってきたらしい。父親というただ血の繋がった男に興味もないしこれからも興味がわくことはない。ただ、自分と良く容姿が似ていたらしい事だけが千石は少し不満だった。この容姿のおかげで随分助かった事もあるが。

気付けば101号室の前に来ていてドアノブを握る手がドアノブを回す事を無意識に拒否している様な気がした。それでも軽いドアノブはすぐに開いて見舞いに来たくせにいつも見たくない、いなくなってしまえばいいと思っている人物が視界に入る。
「清純、ご飯何がいーい?お姉ちゃんもお父さんもまだ帰って来ないのよ。いつまで道草食ってるのかしらね。ホントに」
こんな薄汚れた場所、衛生的には綺麗と言うのだろうが千石にとっては綺麗でも何でもない場所にいながらこんなに能天気な声を出す母親を殴りたくなった。
自分は何もしていないのに、どうして。
世界が公平に創られた事など無い、一度だって。
天の上にいるであろう聖人君子を気取った人々はこうして人の不幸や不の感情を高みの見物しながらさぞ楽しそうに嘲笑っているに違いない。
何度期待に胸を膨らませ、何度絶望したのか。決して自分だけが不幸だと思っているわけではない。小学校の道徳などでやるような「皆に思いやりの心を持ちましょう。そうすれば皆もあなたに優しくしてくれます」の類の言葉に騙されるほど幼稚ではなかったが、意見を聞かれて事務的に口が紡ぎ出す答えの奇麗事が自分自身の耳を通り過ぎるたびに、幾度と無く苛ついた。
そして千石は表情の無い目で目の前に座って千石に笑いかけるやつれた女性を見ていた。
勝手に種を植え付けられて、啼くだけしか出来なくて、挙句勝手に見放されて周りが見えなくなったこの母親はどうしてこうのうのうと笑っていられるのだろうか。
それだけが苛立ちをさらに増させる原因となるのは容易くて。
千石はいつものように母親の話を適当に流し、「また来るから」ではなく「行ってきます」と言って部屋を出た。そして部屋のドアに冷たい目線だけを向けてその後は振り返りもせずに踵を返した。



* * * 



千石はネオンの輝く夜の繁華街をどうする事もなく歩く。
その時、彼のジーンズのポケットに入っていた携帯のバイブが震えた。着信音はマナーにしてあるので鳴らない。
携帯を開き、ディスプレイに表示された名前に少しため息をつき、あー、と喉の調子を整えた後通話ボタンを押す。
「ハイっ清純です、どうしたのいきなり?パパ仕事は良いの?」
空回りに明るく、少し大げさな位に甘ったるく媚びる様な声で通話をする。勿論「パパ」という言葉に父親の意味は微塵も含まれていない。
「じゃあ、八時にいつものところで待ってるよぉ、遅れちゃダメだからねっ」
見えなくとも相手にニコニコしているのが伝わるほどの声で通話を終える。
通話を切り、千石は打って変わってむしゃくしゃした態度で携帯を乱暴に閉じる。そして間もない八時を待つ。

俗にいうホテル街で千石は自分に向かって歩いてきた人物に顔を向けて、笑顔を向ける。あえてホテル街に似合わない艶気のない無邪気な笑顔だ。
「もぉ〜おーそーいー!」
「悪い悪い今日は弾むからさ、お小遣い」
「やったぁー!じゃあ俺も頑張っちゃうからね、お仕事で疲れてるパパの事気持ち良くさせてあげるからっ」
「ははっ、こんな所でそんな事言っちゃいけないだろう?悪い子だなぁ」
さぁ、行こうと先頭を切って歩き出す男性に見えないように千石は心で悪態をつく。男性とは別に恋愛感情も何もない。
ただの客。
それでも金さえもらえるのならば軽いものだった。それに一度常連にしてしまえばこっちのもの。
千石は男、女、抱く側、抱かれる側、それぞれを常連につけるにのはもう慣れていた。この男も然り。
嫌気が差すほどの蛍光ピンクに光るネオンが灯る門をくぐり、そしてまた始まるだけ。

「んぅっ…きょう…おっきいよぉ…くち、はいらな…」
「清純が頑張ってくれるから、ちょっと興奮しちゃったらしい…っ!」
「んぅあっ!かお、よごれちゃった」
「じゃあパパが清純の事気持ち良くしてあげよう」
「ひぅっ!ゆ、ゆびいたいよ…」
「大丈夫、気持ち良くなるから。力抜いて」
「だ、いじょぶ…ぱぱ…もっと」
耳元で囁かれる声が気持ち悪い。顔を汚す汚らわしい液が気持ち悪い。体内に入り込む指が気持ち悪い。
千石の頭は、もとい心は体と裏腹に冷えきり、まるで第三者からの視点のような目で熱を上げていく自分の体を見ていた。別に体なんて一種の商売道具。
八百屋が野菜を売り、本屋が本を売るのと全く変わらない。
この手の男はこうして雑誌のおまけみたいに甘えてやればいくらでもオチてきた。
今は、こうしていればいい。こうして誰かに抱かれたり、誰かを抱いて野良犬の様に生きていればいい。
いつか、この手であの愚かな女の残りの希望の欠片など踏みにじってやるのだから。
絶望という名のワインを飲ませてやれば、もう自分が神に裏切られる事などないはずだから。



今だけ、こうして穢れた汚水を飲んで生きれば良い。





1.枯れかけた雑草は寧ろ息絶えた方がせなんだよ