昔から
外の世界なんて
どうでも良かったけど
触ってみたくて
中の世界は
棘だらけだったけど
触って欲しくて
忍足侑士は少し使い込んだ白衣を適当にだらしなく身に纏い、ポケットに手を突っ込みながら千石が去った精神科の廊下を歩いていた。途中で気付いた様に立ち止まり、目の前のドアを開く。
ノックはしない。所詮精神を病んでいるものにノックなどしても意味は無いのだから。
「ああ、侑士君、また来てくれたのね」
「今日は気分良さそうやん」
そこにいたのは中年の女性の入院患者。
中年特有の小太りなのにも関わらず目の周りだけが皺だらけに窪んでいて奇妙だ。女性はベッドから上半身を起こしていた。
入院という名の幽閉をされている彼女の肌は日の光を浴びていないせいか不健康に白く、それなのに何処か黒ずんでいた。
荒廃、とはこの事だろうか。
忍足はベッドの脇にあるパイプ椅子を開き、そこに腰掛ける。
「侑士君、今日は何のお話してくれるの?」
「侑士君、やなくて忍足先生って呼んでもらってんねんで?他の人には」
「うふふ、ごめんなさい。どうしても貴方の年頃の子を見ると、ね」
「まあええわ。今日はー、何かあったっけかな」
「学校での、お話をしてくれる?」
「それがええんやったら、俺は構わへんで。あんな、学校はな…」
彼女に語りかける。この患者の場合は人の話を聞いていたいのだ。
特に、今高校生位の男子。
学校の事について語りかけてくる忍足に、昔の息子の姿を重ねている。この患者の場合、息子が強制的にこの場所に送りつけたのだ。
昔は、教育ママとして一人息子には勉強に勤しませ、夫の前では良妻になるべく鎬を削る日々を送ってきた。その忙しい毎日に満足していた。
しかしいつからか息子は反抗期を迎え、学校をやめて夜遊びに夢中になった。その悩みを仕事から帰った夫に毎日こぼしていた。すると夫は苛苛した口調でそれを遮り、用意した夕飯も食べずに寝てしまう。
彼女はおかしくなった。
家族は壊れる。
忍足はそれに同情して、こうして来ているわけではない。単なる、暇つぶし。
だから、他の患者の所にもこうして話をしに来たりする。元々は父親に用事があった為偶然来た事が原因だった。
その際、一人の入院患者に話しかけられた。
この患者と同じ様なケースの女性で、やはり同じ様に息子がいるのだと言う。
その日、話しかけてきた患者の部屋で話をしていると、一つの事が分かった。
俗世界に悩む人々はこうして欲を隠さない。薄汚い心という欲望の器に本心を隠そうとしない。器が壊れてしまっているから。
そんな欲が溢れ出る話を聞くのが何故か面白くて様々な部屋に行ってみた。やはり人それぞれの欲が手の内に流れてきて、零れていく。
まるで、おもちゃに囲まれた子供のように、それは楽しかった。それから、暇な時にはこうしてフラフラと立ち寄っては人の惜しみのない欲を手に持て余し、転がしていく。
そして器の壊れた心は蓋も出来ない。こちらから何かを入れてしまえばそれで混ざる。
自分の一言一言でその器は自由自在に変化する。
その感覚だけが、今の忍足の神経を支配する。
しかし、そうなってからも一部屋だけは行かなかった。
最初に話しかけてきた患者の部屋である。
初めて話した日は偶然来なかったのか、次の日からは毎日一人の青年が見舞いにやってくる。家族や周りの人々に取り残され、切り捨てていかれた患者達の中、その患者にだけはたった一人、見舞いが来る。
その人物は忍足自身も何度か見た事のある青年で。
へらへらしていたいつもとは天と地ほどの差があって、いつもなら話しかけるであろうものが話しかけられずに見送った。
後から見れば、患者ははあの明るい髪の見舞いに来た青年の母親で。それでも、見舞いに来ているときに部屋の中から聞こえる彼の、千石の声が憎悪と嫌悪にまみれている事が分かってしまった。会話は驚くほど家庭的な会話をしているのに。
話しかける気になれば話しかけられたのだろう。忍足も無下に人の心の逆鱗に触れるほど、心が読めないわけではない。
むしろ逆だからこそ、ここにこうしているのだから。
今日は偶然だった。こっちも会わないなら会わないで済んだし、まさか例えでも千石の母親が精神科に入院しているなど触れ回ったりはしない。そんなに低俗な人間でもない。
「…ってわけや」
「そう。侑士君はテニスが好きなのね」
「んー、そら他の事に比べたらな」
そう。他の事に比べたら。
他の事が嫌いなわけじゃない。どうだっていいだけだ。なるようになればいいし、自分に関係はない。
例え明日、ノストラダムスが言った予言が今更になって実現しようとも。
「ありがとう、楽しかったわ。また来てね、――」
「ん、また来るわ」
ドアを出る瞬間紡がれた言葉、呼ばれた名前は自分ではなく、彼女の息子の名前。
その息子にこうしてこのような所に入れられたという事実を突きつけられたら、彼女はどのような顔をするのだろう。
信じないのか。絶望するのか。
それとも他のものに縋りつくのか。縋りつける島はあるのだろうか。
忍足はつい試したくなる。子供の悪戯心。
きっと青年の母親もあまり大差ないのだろう。
違うのは裏切られた対象。否、それは語弊があるのかもしれない。
神と運命という、実在するという根拠も実在しないという根拠もない架空の存在に裏切られた事は確かなのだから。
縋りつく存在、よりか縋りつきたい存在があるだけまだ良い。
だが、裏切られるではなく、元から見向きもされなかったらどうすればいい?
縋りつく、の前に縋りつくという事を知らない可哀想な子供。
* * *
忍足は氷帝学園に向かう。毎朝、用意された朝食を食べると別に家族とのひと時の団欒を過ごすこともなく家を出る。
普通の「行ってきます」「行ってらっしゃい」の挨拶などない。それでも誰も何も言わない。干渉しない。
学校に行く途中、岳人と宍戸に会った。何の誘いがあるわけでもなく、普通に合流すると談笑して学校までの道のりを行く。その光景は一般的な男子高校生の姿に変わりはなく、明るい姿。
そして、忍足の器の蓋が、閉じられている時間。無論学校に着いても、授業を受けていても、変わらない。あの精神科に行っても自身の蓋が開く事はない。
「高等部レギュラーはグラウンド五周した後校外の門沿いに五周だ!」
高等部一年生にして異例の部長就任を果たした跡部が高らかに言う。
レギュラーの中には昨年度全国大会において活躍した元中等部三年生達も勿論いる。皆が一斉に走り出す。
忍足は今校外周りに入っていた。前後には殆ど人はおらず、一人で走っていた。余り人通りがいない道に差し掛かったとき、猫の親子がいた。
だが、親の方は車に引かれたらしく倒れて虫の息になっていた。それを何が起こったのか分からない子供が、その場を親を置いて離れるわけにもいかず、右往左往し、時折親の顔をぺろぺろと舐めながら様子を伺っている。
忍足はそれを見つけると自然に引かれる様にその場所に向かった。
そしてその猫の親子を見下ろす。
射抜くような瞳で、親の方を見つめた後、おもむろにしゃがみ込み、親猫の首を片手で掴む。
力を入れ始めると、親猫はヒュゥっと口から空気を漏らした。そしてあっけなく舌がだらんと垂れた。やはり子の方は何があったのか理解できず、きょとんと見ていた。
忍足は子の方を見ると、優しい声で言った。
「これで母ちゃんはお前のもんやで、何処へも行かへんし、お前の事しか気にせぇへんのや。どや、最高やろ?」
忍足は手をかけている親猫だった物を子猫の前に落とした。
そしてその後は子猫の方を見向きもせず、何事も無かったかの様に走って行った。
これで、親猫は子猫以外の元へは行かない、行けない。