「昨日は大変だったー」
「ああ、妹の面倒だっけか?」
翌日の朝、この日はテニス部の朝練がなかったので岳人はまっすぐ教室に向かった。席に着きしばらくすると珍しく早めに登校してきた慈郎が話かけてきた。
二人は幸運にも窓際の一番後ろで前後の席だった。後ろが慈郎で前が岳人である。
早く来たはいいがやはり眠いのか机にべったりと顔をつけながらダルそうに慈郎がいう。
岳人は後ろを振り返りながら慈郎の妹とゲームをしたは弱くてつまらなかった、だったり妹がうるさくてかなわなかった、といった話を聞いていた。聞き終わると、岳人は思い出したように言う。
「そういえばジロー、昨日ジローがいない間に話してたんだけどさ、今日放課後中等部のテニス部行くかんな」
行くか?という誘いではなく、勿論行くだろ、というノリの話し方がいかにも岳人らしい。
慈郎は当然のことながらその理由を問う。
「日吉の奴がさ、中々先輩離れ出来ないわけ!あいつもお子様だよなー」
日吉が聞いていたらいかにも向日先輩には言われたくありません、とでも言いそうな台詞である。慈郎はふーん、と気のない返事をする。
それは眠いからなのだろうと岳人はその返事を気にしていないようだった。
「だからさ、一回喝入れて来ようって話。ジロー今日は帰んなよ」
「…んー」
そう言い終わると岳人は今にも眠りそうな慈郎を横目にクラスに尋ねてきた忍足と話し始めた。
慈郎は腕の中に顔をうずめる。眠気は体に確実に襲ってきているのに目を閉じてみても一向に眠れる気配はない。
慈郎は少し苛ついて窓の縁で肘をつく。複雑な気持ちだけが絡み合っていた。
日吉は可愛い後輩であるし、長太郎も樺地もかげがえのない存在だから頑張ってほしいと心から思っている気持ちのどこにも嘘はない。それでも、嫉妬のような気持ちだけが慈郎の心を焼いて焦がした。
周りに心配されたり気遣ってもらえる後輩達にどうしようもない嫉妬を抱いていた。
自分が、全く気遣ってもらえなかったり、認められていないと思うほど慈郎は被害妄想癖も持っているわけでもない。
まだ始業時間には時間がある。跡部の所にでも行こうかと慈郎は外に出た。
廊下に出た慈郎の肩を誰かが叩く。
「忍足…」
「どないしたんジロー?」
「どないしたって何の事?」
「ジロー今日何かテンション低いやん。忍足侑士君には何でもお見通しやねんで?」
冗談交じりに言い当てられてしまったそれに慈郎は少しだけ噴出すしかなかった。つられて忍足も笑う。
何故か廊下には人はおらず、聞こえるのは教室内での話し声だけだった。
「テンション低いのはきっと時間があるのに早く来ちゃって眠いから」
「せやったらええんやけどなぁ、まぁジローがそうやって言うんやったら深いことは聞かへんけど?」
「………」
「だんまりしてんのは体に悪いって言うで。ま、気い向いたら言いや」
「…したりは、忍足は俺の何を分かってるって言うんだよ」
慈郎は低く響く声で凄みながら言った。
忍足は僅かに驚いた様子はあったが、ある程度予想は出来ていたようであるし、慈郎の声に畏怖はしていなかった。慈郎は少しだけ伏せていた目をギロリ、と自分よりも背の高い忍足に向ける。
忍足は怯まない。
「知ってるていうか、匂い?」
「っざけんなよ、いい加減な事言うな」
「ジローな、俺と同じ匂いがすんねん」
忍足は慈郎の威嚇したような言葉には答えず、言葉を続けた。
慈郎は敵意を含んだ目を未だに忍足に向けていた。
「ジローには、俺と同じようにはなって欲しくないんや。ずっとテニス続けて欲しいて思っとるし、こんな所でへたれるような男やないやろ。それだけやから、ほんならまたな」
忍足は慈郎に背を向けると、手だけをひらひらと振って自分の教室へと帰った。
慈郎は忍足を追いかける事も、かといって跡部の所へ行ったりすぐに自分の教室に戻ったりする事も出来ずに、しばらくの間忍足が去った方向を見続けて立ち尽くした。
慈郎はまだ取れていない左腕の包帯を押さえる。
チッと忌々しそうに舌打ちをした。
* * *
「ジロー!行くぞー!」
放課後になり、そわそわしていた岳人は早く行きたいと、慈郎を急かした。
慈郎は岳人に何となく返事を返すと、「俺、せんせーに呼ばれてるから先行ってて」と言った。岳人は「そうか?じゃ先行ってんな」とさして疑問に思わずに教室の外で既に待っていた宍戸と共に行った。
慈郎は別に教師に呼ばれているわけではない。何故か、口がそう岳人に告げていた。
それでも、理由は心のどこかで分かっていた。
教室で20分ほどぐずぐずした後、やっと慈郎は重い腰を上げて中等部のテニス部の部室への道を歩いた。
途中の道からテニスコートが見えた。まだ岳人達が何をしようとしているかしらない日吉が部長として今日もテニス部を仕切っているのが見えた。
慈郎の心を再び醜い感情が侵食するのが慈郎自身でも分かった。
きりきりと痛む心を持った胸を押さえながら、「岳人、日吉、ごめん」と独り言で呟いて元来た道を踵を返して戻って行った。
苛ついたまま誰かに当たってしまうよりは、もう帰ってしまおうと慈郎は昇降口へと向かった。
その時、よく知った気配を背後に感じた。慈郎は鋭い目つきで振り返る。
「またか」
「またか、はないやろジロー。どうせジローもサボりやろ?」
「“も”…?」
「そ。俺もサボりやし。跡部達には悪いんやけど、行くとこあんねん」
「あっそ。俺、早く帰るから。じゃあ」
「ちょお、待ち言うとんねんっ」
慈郎が背を向けるが左手首を咄嗟に忍足が掴む。慈郎はそれを振りほどこうと暴れるが、忍足の方が力が強く振りほどけない。
喧嘩慣れし、力には自信があった慈郎にとってこれは予想外だった。
忍足は慈郎を逃がさないにようにと手首の力を緩めずに慈郎と目を合わせて言った。
「ジローは、何で壁作ってんねや」
「か、べ…?」
「そや。壁。無意識に自分の周りに壁作っとる。俺は、ジローの事中学ん時からしか知らんけどずっとそうやって思っとった。せやからいっつもこうやって傷作ってんねんやろ」
忍足はわざと包帯の巻かれた部分を掴み、力を入れる。それに伴い慈郎の顔が苦痛に歪んだ。
「離せ…よっ」と慈郎が言うがそれでも忍足は離さない。
まるで痛みを慈郎にあえて更に植えつけているかのようだった。
「慈郎は、周りと自分が違うって思いすぎてんのや」
「だったら、だったら何なんだよ…俺に説教でもすんの…?」
「そないなことするわけないやろ。朝も言うた通り、俺と同じにはなってほしくないんや。俺にはこれ以上言う権利はあらへんし、今日だって止めへん。せやけど、これだけは分かって欲しい。責任を押し付けるわけでもないで、でも俺がやるだけやった後はジローに託したいんや」
「託すって…」
「そやから、また明日な」
そう言うと朝と同じように忍足は去ってしまった。慈郎は“託す”の意味も分からずに、帰路に着いた。