自分を見てくれない有象無象ならば
必要ない
そんなものいらないから
自分だけを見てくれる
たった一つの存在が欲しい
忍足侑士は幸福でありながら、不幸な一人の人間であった。そして不幸ゆえの才に恵まれた子供だった。
忍足は父親が医師という比較的上層階級の家庭に生まれた。よって、少なくとも生活に困ることも無かった。
元から高い頭脳を有していた忍足が、東京都内でもレベルの高いと言われる氷帝学園に入学することはそう難しい事ではなかった。暇つぶしといって始めたテニスにおいても、天才と呼ばれるまでの実力まで登り詰めた。
それによって受ける評価は、忍足自身の結果・功績に対するものであり、忍足自身に対するものではなかった。
両親は、エリート思考というものではなかった。忍足にエリートコースを強要することもなかったし、勉学などで高みを要求することもなかった。
その代わり、一般家庭によくある「よくできたね」という言葉をかけた事もなかった。
家で交わす会話はあいさつと簡単なものしかなかった。別に無視をされていたわけでも嫌われていたわけでもない。
ただ、干渉を全く、しないだけ。
干渉をしないから、忍足は自分の事を何でも一人で決めてきた。しようと思った事は、自分ひとりでしてきた。
人は一人では生きられないというが、それは大方物理的なものであり、きっと精神面ではそうではない。精神世界など所詮一人ぼっちの世界のものであり、他人の侵入を許す事はない。例え、それが赤子であったとしても。成長を促されることはあっても、成長するのは心が自らでするもの、つまり一人で成長するしかない。結局、人の心は一人で生きている。
そうやって忍足が一人で全て決めて、一人でやってきた結果、忍足は「一人で何でも出来る」と評価されていた。
一人で何でも出来るから、手がかからない子だと。
* * *
氷帝学園高等部の男子テニス部は今年、例年以上に盛り上がりを見せていた。それもそのはず、レギュラーの半分以上が一年生という異例を成し遂げ、その上部長までもが一年生という事実からである。
また、全国大会を圧勝で勝ち進み、遂に決勝まで勝ち上がっていた。一年生は去年の雪辱もあり、気合が入っていた。
そして、その決勝戦を明日に控えた今、部員だけでなく学園中の人間が全国大会決勝戦を今か今かと待ち望んでは昂ぶる気持ちを抑えられなかった。中等部の全国大会よりも高等部の方が先に行われるため、盛り上がりは一層大きいものであった。
「いよいよ、明日ですね」
中等部テニス部部長である日吉若は、高等部テニス部部長の跡部景吾の元にいた。
去年、日吉も経験した悔しさを、今ここにいる者達が晴らしてくれるのかもしれない。
否、この人達ならやってくれるのだろう、と日吉は思っていた。日吉自身、わくわくするような気持ちは抑えきれていない事が自分でも分かっていた。
「絶対、俺達が勝ってやるぜ」
そう強気に言ったのは丁度ジャージに着替えていた宍戸亮だった。宍戸は相変わらず青いキャップを被り、相手から目を逸らすことのないように見る力強い瞳をしていた。
そこに誰かが入ってきた。同じく一年生、滝萩之介である。滝は去年中等部時代はレギュラーから落ちてしまったものの、高等部ではレギュラーの座を取り戻していた。
よってレギュラーの半分以上が一年生、というよりレギュラーはほとんど一年生が占めている、といった方がいいのかもしれない。
「滝さん…」
「やぁ、日吉。久しぶり」
「あ、ハイ」
「ところで、明日のオーダーってどうなったんですか?」
「教えてやれ、萩之介」
「あー、えっとね、D2が先輩方、D1が岳人とジロー、S3が宍戸、S2が忍足、S1は勿論跡部だけどね」
「滝先輩は、出ないんですか?」
「準決勝は出たからね。それに俺達はまだ高一だから来年も出られるし。だから明日は補欠になってるんだよ」
「そうですか。それにしても意外ですね、忍足先輩がS2なんて。そりゃあ去年もS3でしたけど」
「それもね、準決勝までは岳人とダブルスだったでしょ?意表をついて忍足をシングルスにしようっていう作戦だったりするんだけどさ」
「忍足は充分シングルス向きだ。あいつは、一人でも戦えるからな」
「何や、随分俺を買ってくれてるやないの」
「忍足さん…!」
忍足が部室のドアに背を凭れていた。忍足は笑みを浮かべていた。その笑みは来るもの拒まず、の忍足特有の笑みでありながら、人に執拗に心の奥に侵入させない盾のような笑みである。そして軽い足取りで跡部達の元にやって来た。その様子は、明日に大切な試合があるという実感を全く沸かせなかった。寧ろ、忍足自身はプレッシャーを全く感じていないように見えた。忍足はいつもそうなのだが。忍足はいつもプレッシャーというものを見せない。緊張というものを見せない。いつも余裕を持て余したような顔でまるで他人事の様に一歩後ろに下がって物事を見る。
それが良い事でもあり悪い事でもあったのだが。
忍足は部室にある椅子にリラックスするように腰掛けた。
日吉は立ったまま忍足に向かい合う。
「忍足さん」
「何や?」
「俺、正直忍足さんって何か良く分からないし、時々真面目にやってるんだかやってないんだか不審に思ったこともあります」
「そらひどいなぁ」
「でも、忍足さんの事何だかんだ言って尊敬してます」
「嬉しい事言ってくれるやないの」
「だから、明日頑張ってください」
跡部が口を開いた。
「日吉。先にトロフィー掲げて待ってるぜ」
「…はい!」
それを黙ってみていた忍足がいきなり席を立った。部室を出ようとする間際、日吉の横を通り過ぎる際、日吉にしか聞こえない様に呟いた。
「せやけど、俺みたいにはならん方がええで」
* * *
「ゲームセット!ウォンバイ向日!芥川!」
「ゲームセット!ウォンバイ宍戸!」
「ゲームセット!ウォンバイ忍足!」
「ゲームセット!ウォンバイ跡部!」
「優勝校・私立氷帝学園高等部」
氷帝学園は優勝を果たした。それも全勝という快挙を成し遂げて。一年生にとって、雪辱をやっと晴らせたのである。宍戸が勝った時点で優勝は決まったいたものの、オーダーの全試合をやることになっていた。
ラストを飾るべく、跡部が勝利を収めた瞬間、氷帝のギャラリーが沸いた。それは、「勝つのは氷帝 負けるの××」といったものではなく、純粋に、ただ、勝利を喜んで沸いた。そこにはもちろん日吉を始め、長太郎や樺地もいた。
長太郎は宍戸の勝利の瞬間、我が事のように喜び、泣き始める始末だった。日吉も、心なしかほっとしたような表情を浮かべていた。
レギュラー達の戦いは、圧勝、といっていいものだったがだからといって一方的なのではなく、見ていて気持ちのいい良い試合だった。
表彰式の折、跡部は誇らしげに授与したトロフィーを空に向かって掲げた。すると静まり返っていた氷帝の応援が再び沸きあがった。
いつもは呆れた顔をする宍戸も、今ばかりは違っていた。
そう、氷帝は勝利を収めたのだ。
記録に、人々の記憶に長く残り続けるであろう勝利を見事、収めたのだった。
* * *
その後、だった。
忍足がテニス部に正式な退部届けを出した後、休学届けを学校に提出したのは。
一人で築く、二人だけの世界へ今行こうとしているのかもしれない。