君も同じなんだと
気付いた

僕も同じなんだと
気付いた

だから、もう、いいかな



千石清純は、ある家の前にいた。
その家は、都心部から少し離れた所にあり、回りに住宅は見当たらない東京都のある所にあった。家は一戸建ての住宅であり、外装は洋風にあしらわれていた。
下手な一般家庭の住宅よりも高級であろうその家だが煌びやかさ・派手さはなく、シンプルな造りをしていた。
そうというのにこの家の住人は一人しかいない。いや、その住人にとっては二人暮しと行ったほうが良いのだろう。
千石はその家の呼び鈴を鳴らす。するとすぐに人が出てくる気配がいた。扉が開かれる。
「よっ、元気?忍足クン」
「何や千石か」
「何や、はないでしょ何やは」
忍足は皺だらけの白いシャツと、ジーンズを履いていた。
健康的そうには見えないにも関わらず、以前とは打って変わり、何処か常に冷静に考えているようなクールな顔はそこには無かった。へらっと笑うその顔はまるで子供のようだった。
そう、まるでご機嫌な子供のよう。
「上がってくやろ?」
「うん。お邪魔しまーす」
内装もまたさっぱりした造りであったものの、何処かアンティークな雰囲気がしていた。部屋一つ一つの天井が高い造りで一人で住むにはもったいないほどであった。
事実、明らかに使われていないような部屋がいくつもある。
忍足は千石を最も奥の部屋に案内した。恐らく、忍足はそこで殆どの生活をしているのだろう。だからといって、物はやはり少なく、いくつかの洋箪笥と一つのテーブル、それに対応した二対の椅子、それと部屋の中央に骨董品のような一つの椅子と、そこにちょこんと座る人形のみだった。
その人形は、いつかの日に街で見たあのショウウィンドウの中のものと同じものであった。
千石は人形に興味を持ち、近づいた。
「可愛いやろ?俺お茶淹れたるからその子と遊んで待ったって」
「忍足クン…?」
忍足はやはり以前の含みのある笑みとは違いへらっという笑顔で部屋を出た。
千石はその後ろ姿を見送って呟く。
「そういう事か…忍足クンも」



* * * 



「コーヒーやけどええ?」
「うん、ありがとう」
「いきなり来るなんてどないしたん?」
「いやさ、この頃忍足クン見ないな、って思ってたら部活辞めて、学校も休学、遂にはこの前退学。それでよりによってこんな所に住んでるって聞いたからさ、どうしたのかなって思って。何で部活とか辞めちゃったの?親とかは…」
「部活…?学校…?何やそれ?それに親って何?俺はずっとあの子と一緒やで。まあこの頃跡部とかには会ってへんけど」
「え…?」
「どないしたん?」
「…ううん、何でもないんだ」
忍足は、僅かな友人しか記憶を持っていなかった。親すら分からない。
もしかしたら、あの時病院で出くわさなかったら、街に誘わなかったら自分の事も忘れていたかもしれない。いや、確実に忘れていただろうと千石は思った。
正確には、“忘れている”のではないのだろう。忍足の持つ“記憶”の領域から削除されているだけ。一定の交流以上を残していない人物の一切の記録は忍足の中から消される。それは、忍足にとって親は千石や跡部達よりもランクが下という事を表していた。
つまり、親と忍足の交流は部活の友人以下だという事だった。
千石は人形にチラっと視線を移す。人形は当たり前だが動きはしない。目線は一点にしか定まらない。
「忍足クン、眼鏡かけないの?」
「んー、時々かけるで。買い物とかに出かける時とかな。伊達やけど、かけとった方が俺っぽいやろ」
「そうだね。…忍足クンさ、少し痩せたね」
「そおか?そないな事言うたら千石は最近寝てへんのとちゃう?めっちゃ顔色悪いし隈も出来とる」
「マジで?気付かなかった。いい男失格じゃん、どうりでこの頃ナンパ失敗すると思った」
「そらご愁傷様やな」
忍足はからかうように笑ってコーヒーをすすった。千石もコーヒーを飲んだ。
コーヒーはブラックであったのに、何処か甘い味がした。
忍足は「ちょっとごめんな」と言って席を立った。部屋から出ると二、三分して戻ってきた。その手には可愛らしいコップが握られていてストローが差さっていた。中身はオレンジジュースのようだ。
それを人形の元に持っていくと言った。
「ジュース持ってきたで。飲む?…いらへんの?そっか。じゃあ戻してくるから待ったってな」
勿論人形はその間何も話はしないし、何もすることはない。それでも忍足は人形の綺麗な髪が植えつけられている小さな頭を優しく撫でると、笑って納得したように“会話”をしていた。
誰が見ても異様な光景だっただろう。
それでも千石はその光景に不気味さを感じることは無かった。寧ろ、羨ましいという感情さえ持っていたのかもしれない。
そのまるで親子のような、兄弟のような、恋人のような関係に。
千石は忍足がオレンジジュースを戻すために出て行った部屋に残され、ぼんやりと頬杖をついて人形を見つめていた。
何を考えてか立ち上がり、つかつかと人形の方に歩み寄る。しゃがみ込み座っている人形と丁度いい具合に目線を合わせる。
そして先ほどの忍足と同じ様に優しく、優しく頭を撫でる。人工毛であるはずの髪の毛が妙に柔らかく、温かく感じられた。余程忍足に大切にされたのだろう。
忍足のあれ吹っ切れたような笑みを思い出し、千石は不意に涙がこみ上げてきた。
すると後ろから忍足の声が聞こえた。
「やっぱ可愛いやろ、その子」
「名前は、ないの?」
「俺も呼んでやりたいねんけど、その子が教えてくれへんねん。結婚するまでの秘密なんやて」
「結婚、か」
「ホンマ、その子に一本取られた思ったわ」
「そうだね」
「まぁ、俺としてはいつ式とか挙げてもええねんけど」
「その時は、呼んでね」
「当たり前や、豪華なのにすんで」
「そりゃあ楽しみだなぁ」



* * * 



千石が帰宅し、日は暮れる。
忍足の家は大きいが夜に電気が付けられる部屋はたった一つだけである。そう、最奥の部屋だけ。
朝になり、カーテンが開かれ太陽の光が降り注ぐ部屋も一つだけ。日がどれだけ巡り巡っても変わることはない。
人一人だけの家から、今日も声が聞こえていた。
「今日はな、自分の好きなもん作ったんやで、夕飯。それになぁ、昨日、自分が欲しいゆうとったあの服もさっき買うてきたんやで。どや、嬉しいやろ?ホラ、見せたるで。可愛いやろ。サイズも勿論ぴったりやで。え、何?今すぐ着たいん?しゃあないなあ、さ、おいで。俺が着せたるから。ん、ホンマに似合うで。やっぱ俺の見立てのおかげや、そんなことないって?言い寄るなぁ自分も。ほな、夕飯にしよか。まだ欲しい思ってる服があるん?せやったら今度買って来たるからな、せやから何処にも行かんといて。な、愛しとるで。ホンマ、ホンマに愛しとる。結婚式ももうホンマ今からすぐにでも挙げても構わへんし、寧ろ挙げたいと思ってるし、自分が恥ずかしいゆうんやったら誰も呼ばんかってもええし、全部自分が好きなようにしてええよ、ええから、何処にも行って欲しくないんや、俺だけ見とって、な?」



* * * 



山吹高等部の屋上、灰色の煙が二筋、空に向かって消えていった。
「ねぇ、亜久津」
「何だよ」
「俺さ、やる事やって、そしたら自由になりたい」
「授業サボって屋上で煙草ふかす事は自由じゃねーのかよ」
「まぁ、自由だよね」
「ちっ、これだからテメーといるのは嫌なんだ。へらへらしやがって」
「お褒めの言葉ありがとう」
「褒めてねーよ」
千石はポケットから買ってきた煙草の箱を出し、もう一本取り出した。吸っていたものは屋上の地面のコンクリートにポトッと落とし、上履きで踏みにじった。
上履きに少しだけ煙の匂いがついたのは気にならなかった。
まるで何か忌々しいものを踏みにじるようにしつこく踏んでいたら、煙草の巻紙が破れ、二つに分断されていた。
千石は寄りかかっていたフェンスから身を起こす。
「何て言うかよ、俺は偉ぇ大臣様でも何でもねぇから無責任な事言っちまうがな、別にやりたい事やりゃあいいんじゃねーの」
「やりたい、事ね」
「別にそれが他の奴らに言わせればいけねぇ事でも構わねぇよ、そんなこった糞食らえだろうが。やりたい事があんだんだったらさっさとやっちまえ。それから俺にツラ見せやがれ。へらへらしねぇで考え込んでるてめぇなんて気味悪くて見たくねぇよ」
「そっか、やりたい、こ……」
「オイ、どうした千石!」
千石はスローモーションのようにその場に倒れた。
力を失った千石の拳だけがギッチリ、と握られていた。救急車のサイレンだけが、虚しく鳴り響いた。



楽に、なる。






7.何処も見るな、こっちだけをていろ