貴久は壁に背をつけ床に座っていた。脚と脚の間に清純を座らせて後ろから抱きしめるようにしている。清純は、少し顔を赤くして抵抗をする様子は見せない。貴久の腕の中は暖かいのか、無意識の内に目を閉じて頭を貴久の腕にもたれていた。貴久は片手を動かし、その指で清純の首筋から肩にかけて滑らせた。露わになった太股に指が這った時、清純は少しくすぐったそうにした。貴久は清純にしか聞こえないような小さな声で言った。
「ワイン、というものはこの大陸ではキリスト教においてイエス・キリストの血の象徴ともされているんですよ」
「貴久様は、ワインの事、何でも知っているんですね…」
「好きですからね」
「俺も、好きです」
「それは良かった。君に嫌われていては、どうしようもないですから」
「え……?」
貴久は「何でもありませんよ」と言って親指で清純の唇をなぞった。
「君には、夢はありますか?」
「え、あ、はい…」
「何です?」
「貴久様が教えてくれたら、教えます」
「犬の癖に随分と生意気ですね。まぁ、そんな所も可愛いんですが。なら、君が教えてくれる気になった時に僕も教えましょう」
* * *
「貴久坊ちゃま、食事をお持ちいたしました」
貴久と清純は屋敷の地下室に暮らしているが、地下室にはワインと簡単な軽食しか置かれていない。もちろん、貴久も清純も人並みに食事は必要である。そのために、梶本家の執事で千石の家の出でない者が食事を貴久の指示に合わせて運ぶ。その他の生活用品も同様である。貴久は重そうな鉄で出来た扉に後から作られた小窓からそれを受け取る。
「わざわざすまないな」
「いえ、私は梶本家に仕える身ですから。ではこれで」
執事の年老いた男はゆっくりと恭しく頭を下げて挨拶をした。地元の人間であるため、頭を下げると、窓に向けられた頭の白髪の中に少しだけ元のブロンドの髪が混じって見える。立ち去ろうと踵を返した刹那、貴久が執事の男を呼び止めた。執事は歳のせいかやはりゆっくりと振り返ると、皺だらけの顔の温厚そうな瞳をでじっと窓から覗く貴久の顔を見据えた。
「少し、気になったことがあるんだ。ただの哲学の考えすぎ、と言われるかもしれないが」
「何でしょう?私に答えられる事でしたら何でもお答えしましょう」
「僕は、何かを見落としている気がする。何か、僕の記憶と異なったことがあったんじゃないか、そんな気がしてならない」
「……と言いますと?」
執事の男は具体的な説明を求めた。が、貴久は肩をすくめる。
「それがさっぱり分からないから僕が幼い頃からこの家に仕えている貴方に聞いている。千石家の人間でもないのに家の信頼を得ている貴方に」
「千石家でもないのに、ですか…」
「気を悪くしたのなら謝る」
「いえ。そういうわけではありませんよ。……梶本家と、千石家、ですか…」
執事の男は寂しそうに目を細めて笑みを洩らした。貴久はそれを不思議そうにみる。懐かしそうに鉄の扉に施された紋様を指でなぞる男を意味が分からないというようにその長身から男のやはり皺だらけの指を目で追った。執事の男は微かにため息をつく。
「私には、何も言う資格はありません。ただ…」
「ただ?」
「血の因縁、とでも言えば良いのでしょうか」
「血の因縁?言っている意味が「一つだけ」
「一つだけ、忘れないで頂きたい。他の何を忘れてしまってもこれだけはお心に残しておいて下さい」
「……何だ」
「たとえ過去のしがらみや記憶に捕らわれて大切なものが見えなくなっていたとしても、坊ちゃまの傍にそれはきっとあるはずです。どうか、それを、それだけを守り抜いて下さい」
「…………大切な、もの」
「それが、坊ちゃまの運命です」
言い終わると執事の男は少し折れた腰から頭を上げて貴久としっかりと目を合わせると、笑顔を零した。貴久はまたしても怪訝そうな目を向けた。が、踵を返して帰ろうとする執事の男を止める手は空を切って中途半端に降りた。何か言おうとする口からも不思議と言葉を発する事も出来ずにパクパクと曖昧に動いただけだった。執事の男は地下室と地上階を繋ぐ階段をコツ、コツと音を立てて登っていくのを見ている事しか出来なかった。貴久の肩を後ろから誰かが叩く。反射的に構えを取りながら振り向く。
「…っ!」
「あ、あの、た、貴久様…え、あ」
「……君ですか…すいません、取り乱してしまいました」
「…だ、大丈夫です…」
「食事にしましょうか」
「はい」
清純が「俺が持ちます」と言って貴久から受け取った食事を運びながら貴久に背を向ける。貴久はその細い背中を見つめながら自分も歩き出す。「夢、か…」と独り言に呟きながら先ほどの“血の因縁”について考えていた。しかし何度考えても答えになるような考えは浮かんでこなかった。大体、それを知って何になるのだろう。貴久自身、このままの清純との地下室の生活に大分馴染んでいるのではないか。寧ろ、出たくない、このまま一生暮らしていたいと思ったことは全く無かったと言えるのか。そんな考えが貴久をよぎる。その中、貴久の頭に声が響いた。誰かの声に似ているようだ。よく聴けば、幼い、自分の声だった。
“そもそも、僕は何でこの部屋に入ったの?”
「ソムリエの、修行をするため…」
“じゃあ、どうしてソムリエになる事を反対したお父さんとお母さんはこの部屋を貸してくれたの?”
「知らない…」
“どうして親切に僕に清純っていう世話係まで付けてくれたのかな?”
「知らない…」
“僕って、知らない事ばかりだね?知っている事も、本当は知らない事なんじゃないの?そう思いたいだけなんじゃないの?”
「知らない知らない知らない!」
“きっと、全部僕自身の記憶は、妄想なんじゃないの?”
「知らないって言ってるだろ!?」
“へぇ、じゃあ僕は夢見るだけのただの男の子のままだね。大人になんて、なれない”
「ぅ、るさいっ!!」
貴久の体が力を失って床に倒れた。清純が食事を取り落としたのも構わずに駆け寄る。貴久のまるで壊れたテレビのような視界の中、夢と呼ぶべき一点の光だけが、混沌とした記憶の渦で輝いていた。