幼くて、弱くて、卑怯で、周りの全てが嫌いだった僕は一人強がって体が大人になると同時に自分の事を俺、と言って強がった。
父さんが嫌いだった。いつも家族、ではなく家のことばかり考える父さんが嫌いだった。外や俺の前では偉そうにしているくせに母さんの前ではただの欲望に駆られた獣、いやそれ以下の雄になった。一度だけ見たことがある。父さんの堕落した情けない姿に吐き気がした。その日、俺は何も食べることが出来なかった。時折トイレに立っては、父さんの姿を思い出して嘔吐した。
母さんが嫌いだった。母さんは地元生まれの小金持ち、つまり中流貴族の子供だった。上流貴族にふさわしい妻ってのを演じようとして勝手に頑張ってた。俺には恩着せがましく優しくしてきた。気持ち悪かった。触るなと言いたくて仕方が無かった。そのくせ陰では疲れた女、可哀想な女ぶって挙句父さんの雌猫、下僕に成り下がってますます可哀想な女らしさを俺ばっかりに押し付けた。やっぱり吐き気がした。
家の誰もが嫌いだった。
ある日、若い新入りが入ってきた。明るくて太陽みたいなオレンジ色の髪をしていて、目は綺麗な深い緑色だった。祖父さんや祖母さんに品定めをするように見られていたそいつはこっちが苛々するほどオドオドしていた。クズばっかりのこの屋敷で何故かまともに見えたその新入りにコーヒーを持ってこさせたら、そいつはちゃんと俺の前では仕事をこなした。でも、皆がいるところ、特に祖父さんと祖母さんがいるところだとどうしても緊張するのか、いつも仕事を失敗していた。ある時、祖父さんと祖母さんがいつも雇っている日雇いの男達にそいつを殴らせているところに遭遇した。そいつの父親と母親、俺の祖父さんと祖母さんが意地悪い顔をして汚い唾を飛ばしながら「この役立たず」とか「一族の出来損ない」だとか罵っていた。俺は頭に血が昇るのを感じた。頭の中が隅々まで熱くなり、その場に飛び出していっていた。
気付いたら目の前にあったのは頭蓋骨が砕けて頭の中身をぐちゃぐちゃに汚くこぼしていた祖父さんと祖母さん。それから腰が抜けて俺を化け物でも見るみたいに見る新入りの両親。日雇いの男達はとっくに逃げていて、後はただ驚いたように俺を見上げる新入りと俺の手がしっかりと掴んでいる赤ワインの瓶だけだった。俺はどうしてかその新入りの頭や頬を撫でて「大丈夫か?」と聞いた。笑ったのが見えた。
父さんと母さんが顔面蒼白に駆けつけてきた。祖父さんと祖母さんの成れの果てを見て母さんが崩れこみながら嘔吐する。父さんが床に膝をつく母さんを横目で一瞥した後、俺と新入りを見て、忌々しそうに何かを吐き捨てた。何を言ったかは覚えていない。いつの間にか眠っていた。
目が覚めると、俺は僕へと生まれ変わっていました。隣には、清純とワイン。
* * *
「思い出した…、全て」
貴久の視界が次第にぼんやりとながらも開けていく。いつも見ていた世界なはずなのにどこか新たな感覚がした。清純が貴久の頭を抱きしめながら嗚咽する。貴久が起き上がろうと清純の体を引き離すと、涙をたっぷりと溜めた清純の目が合う。
「貴久、様は…っ、昔の、っ、貴久様に戻ってしまった、んで、すか…?昔の、全てが嫌いだった…っ」
「…どうして全てが嫌いだった、なんて分かるんですか?」
「俺はっ、ずっと貴久様の、事をっ、見ていました…っ」
貴久は指で溢れ出る清純の涙を拭う。そして少し垢抜けたように微笑んだ。
「僕は、いつまでも僕ですよ。昔の僕のした事も、“僕自身”がした事です。ここに居た理由だと思っていた物は、僕の幻想で真実ではない」
「……良かった…っ」
「どうして?」
「…今までの、貴久様との事を、無かった事になんてしたくないっ、ん、です」
「…………」
清純の心情の吐露に、貴久の顔に真剣味が帯びられた。首輪とシャツしか身に着けていないその体をきつく抱きしめた。包み込む力の強さに清純が切なそうに眉根を寄せる。何度も抱きしめあい、お互いの体を犬のマーキングのように擦り付けあった。貴久が流れに身を任せて唇を押し付けた。二人とも既に欲望に唇を湿らせていた。舌を絡めずとも淫らな水音が響く。その音に反射的に唇をかみ締めた清純の唇を貴久が一舐めする。それと共にかみ締められる力は抜けて、その隙間から貴久の舌が侵入する。
しばしの口付けの後、貴久が部屋の端に置かれた小さな洋箪笥から衣服を取り出し、清純に手渡した。清純は目をぱちくりとさせて腕の中のそれを見る。
「着て下さい。首輪も取ります。君は、もう僕の犬ではない」
「え…それ、って…俺を、捨てるって事ですか…?い、嫌だ!捨てないで…下さい」
「違いますよ」
「え……?」
「君と共に、ここを出ます」
「ここ、を……出る」
「ええ。少し、父さんにも用事がありますし外の世界で叶えるべき夢があるんですよ、君と」
「俺、と…」
貴久は「ええ」と言うと衣服を着て首輪を取り去った清純の手を握って外に飛び出した。数年ぶりの外は眩しく、目が思わず眩みそうになった。実際少しよろめいた清純を貴久が腕で支える。地上階に出ると、仕える何人ものメイドや執事達の驚嘆と畏怖の目を受けながらも全く気にしないといったように廊下を進む。貴久は清純を率いて父親のいるであろう部屋をノックせずに開けた。
「ノックもなし、か。数年経っても変わらないものだな」
皮製の椅子に深くかける初老の男こそ、梶本家の現当主にして貴久の父であった。貴久はそれに応えることなくつかつかと父親のデスクの前に詰め寄る。睨み合いにも近い無言の対峙が長く続いた。
「僕に、教えて欲しい事があります」
「言葉遣いだけは一丁前になったらしいな。まるで人が変わったみたいだ」
「わざと、仰っているんですか」
「用件は早く済ませて再び修行とやらに戻ったらどうだね」
「父さんはあの日、僕に何と言ったんですか?」
そう言うと共に貴久と清純の背後で盛大に陶器が割れる音が響いた。咄嗟に振り返ると、口を押さえ叫びたい衝動を耐える貴久の母親が目を恐怖に満ちさせて立っていた。その足元には父親に持ってきたらしい紅茶のカップの破片と盆が転がっていた。「あ…あぅ…ど
、ぅして」ともはや声にならない声を上げる母親を貴久は冷ややかな目で見る。母親は声が出るようになったのかヒステリックに叫んだ。
「どうして貴方がここにいるのよ!どうして出る気になんてなったのよ!貴方はどうせ何も出来ない癖に!!ただの殺人鬼の癖に!!」
「母さん」
「早くそこの出来損ないと消えなさいよ!貴方なんか見たくない!殺してしまえばいいのに!!どうして血なんか繋がっているのかしら!もう息子でも何でもないのに!!」
「少し、落ちつきなさい」
そう宥めたのは貴久の父親だった。父親は椅子から立ち上がると貴久と清純の方に向き直った。そして至って無表情に告げた。
「種明かしをしようか。私達がお前達を地下に幽閉したんだ。それを気の動転していた貴久、お前は良い様に解釈をして頭にそう思い込ませた。ただ、父さんと母さん、まあお前からすれば祖父さんと祖母さんを殺していたのがお前でなかったらその日の内に処刑だったさ。しかしこの家の次期当主となり得る者はお前しかいない。それでも私はお前にこの家を任せるつもりはなかったよ。無論現在もだ。何せお前は記憶喪失ではないからな。丁度良い替え玉を見つけるまでの保留所だったんだよあそこは。見つかりさえすればお前達を表面下で始末する、それが取り決めだ」
「記憶が戻ってから大体そんなことだろうとは予想はついていましたよ」
「ほぉ?」
「僕が聞きたいのはそんな事ではありません」
「分かっているさ。私があの日お前達に言ったのは、」
父親の口が笑う形を作りながら、こう動いた。
“気違いの主と出来損ないの犬はせいぜいじゃれ合っているといい”
「父さん」
貴久がとても穏やかな笑みを浮かべて父親の顔を見る。父親は意外な反応に不可解さを感じたのも束の間だった。息子の穏やかな表情の意味を知ることなく、ドサッと床に倒れこんだ。頭から、赤い液体がゆっくりと流れる。貴久はそれを確認すると「ひぃっ、…ゆ、許して…いいい命は」と情けない声を上げる母親を同様に清純に部屋からさり気なく取らせておいた赤ワインの瓶で力一杯殴った。二人の死体を一瞥して、貴久は満足気に言う。
「“気違いの主と出来損ないの犬”というのは父さんと母さんの方でしょう?」
そう言って、清純を連れて屋敷を出た。
* * *
二人は風の良く抜ける丘にいた。風に髪が靡く。
「これから、どうするんですか…?」
「夢を叶えるんですよ。僕は何も後悔していません。祖父と祖母を殺した事も、両親を殺した事も」
「貴久様の夢って、何ですか?」
「君と、店を開こうと思っています」
「店…ですか」
「はい。そこでずっと暮らす、っていうのもなかなか粋でしょう?後、様はやめて下さい」
「あ、はい、貴久、さん…」
またもや風が吹きぬけ、向かい風に目を細めた貴久の薄いとも濃いとも取れない茶色の髪が揺れた。清純は思わずその姿に見惚れてしまう。それに気付いた貴久と目が合い、恥ずかしそうに慌てて目を逸らした。
「それから、君の夢も話す約束のはずですが?」
「あの、えっと…俺の夢は、貴久さんと一緒にいたい、とか…」
「そうですか。それは良かった」
貴久が清純の肩を寄せると共に遠くから梶本家の屋敷の大きな門が完全に閉ざされるのが見えた。これからは恐らく、誰もがあの屋敷から立ち去り、いつかは蔦の這う廃墟と化す日も来るのだろう。生まれ育った家だが、別に寂しいとは感じなかった。おもむろに清純が口を開く。
「このままだと、梶本家と千石家はもう……」
「いいんですよ。いつまでも昔の血の因縁に捕らわれるのはやめにしたんです。それとも、君はまだ未練があるのですか?」
「なっ、ないです!俺は、貴久さんと居られるだけで…」
「嬉しい事を言ってくれるんですね」
自然とお互いに目を閉じ、唇が触れ合う。
「好きですよ」
「俺も、好きです」