二人は結局その後、簡単に昼食を済ませると、特に何処に行くとこもなくマンションに帰ってきた。まだ時刻は夕方にも達さず、おおよそ二時辺りだ。窓から見える景色は良い天気でちらほら見える薄い千切れ雲も風に流され、空は快晴となる。降り注ぐ太陽の明るさに思わず目を細める。空中を太陽の日差しも気にせず、人々の慌しさを我関せずと飛んでゆく鳥達は本当に自由だ。例え、人のほうが安全な環境に置かれていると言っても人の安全は囚われている上での安全であり、それは決して安らかとは言えない。この世界に囚われ、愛に悩む恋人達より、どれだけ一生連れ添う鳥の番いの方が幸せなのだろう。
そんな鳥になりたいとは思わない。ただ、地上から幸せな鳥達を眺められる花になりたかった。
「結局、ウチに帰ってきてしもたな」
「別に…他に行きたい所なんてねぇしよ、ちょっといいか?」
「何やの?」
忍足は跡部に連れられてリビングの隣の部屋に行く。その部屋は別に用途は無く、ぽつんと一つ、ピアノが置かれていた。跡部も忍足も元々その部屋は使う必要は無かった。勉強などは比較的広めのリビングで済んでしまう。そんな使われる事の無い部屋に、あまりに質素すぎる、と跡部が何故か家からピアノを運んできたのだった。それは跡部邸にあるものほど質のいいものではなく、上の下といったところか。跡部曰く、「小さいときに使ってた」そうで、確かに真新しいものではないが、一般的に見ればそれなりにいいものであることは否めない。それからというもの、忍足が暇を持て余すと跡部に弾いてくれと言った。跡部は流暢な指さばきで弾きこなしていた。忍足が頼んだときは仕方ない、という風に弾き始めたものだが、弾いている途中の跡部は活き活きとしていて、演奏を楽しんでいた。忍足は特にピアノに触る事はなく、演奏をただ聴いているだけだった。
「今日買った楽譜の曲弾くん?」
「ああ」
「景吾、上手いからどれでも弾けるやろ?俺が選んでもええ?」
忍足は跡部の手に持っていた楽譜をヒョイ、と取るとパラパラとまるで雑誌を見るようにめくり始めた。うーん、と唸りながら曲を選ぶ。
そのクラシック集は結構有名な曲が多く、忍足も聞いた事のある曲が度々見えた。
「俺は弾かない」
「え?」
「お前が弾くんだよ」
「何言うとんの?俺?」
「お前だってピアノくらいできんだろ?」
「出来ひんこともないやろうけどなぁ…」
跡部は呆気に取られる忍足の手にある楽譜を取り返すとページをめくる。一度、ベートーベンの一覧の目次で手を止める。目次を指でなぞる様子は、ある一曲を探しているようだ。
ある一点で指を止めるとその該当ページを開いた。そしてその開いたページを忍足に見せる。
「G線上のアリア…?」
「これ弾け」
「ちょっ、いきなりすぎやろ!?いや、俺かて…何でそんな急なん?」
「忍足の、ピアノ聴いときたかったんだよ…」
「…お姫様がそういうんなら俺もやらへんわけにはいかんなぁ」
忍足がピアノの椅子に座り、半分ほど開けたその椅子の余りに跡部を座らせる。
忍足の指が白や黒の鍵盤に触れた。
(よく聴いてて欲しいんだ、その耳で。俺の声とか俺の演奏とか俺の出す全ての音を君に捧げるから)
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