「本当、天才は何でも出来んだな」
「そんな事あらへんよ、いつも景吾の見とったけど、あないに上手く出来へんし」


忍足の指は初めてというには上手すぎるほど軽やかに鍵盤の上を滑っていく。確かに、跡部が以前弾いていたように素早い指の動き等をしている訳ではない。それでも、これで初心者か、と思わせるほど忍足の指裁きは華麗であった。音色はG線上のアリアらしく、優しく、穏やかである。ピアノ特有の繊細さもある。それでいて弦楽器で弾いた場合のどこか哀愁深い感じも感じさせていた。まるで、恋愛映画のクライマックスの様な一場面。そんな雰囲気を醸し出す一台のピアノとその黒と白の淡白な鍵盤。
音に酔う、とはまさしくこの事であろうか。技術ではない、何かに趣を感じる。既に、二人も酔っていた、音色と、温もりに。


「聴いといて良かったぜ」
「そう言われると弾いた甲斐があったなぁ」
「俺この曲結構好きなんだぜ」
「なんや、結構なんかいな、一番やのうて」
「今一番になった」
「最高の口説き文句やないか」


忍足は楽譜が終わっても、曲の終わりを感じさせないように何度も何度も繰り返し引き続けた。何度も何度も、引き続けた。跡部は頭を電車で寄りかかって寝るように忍足の左肩に預けた。その目はトロンとして恍惚としていた。
日は既に暮れていて、それでも引き続けた。部屋の照明は特に灯っていないのに暗くは感じなく、寧ろ明るささえ感じられた。忍足は腕の痛みも疲労もないのかスピードが緩んだり、ミスをしたりすることなく引き続けた。そして、ポツポツと語るように言葉を紡いだ。


「あんな、景吾」
「何だよ」
「よう聞いたって」
「ああ」
「俺な、景吾の世界で一番好きやねん」
「ああ」
「景吾がおらへんと腑抜けになって何も出来へんらしいねん」
「ああ」
「せやからな、いつまでも傍にいたってな」
「ああ」
「ホンマ、好きやで」
「俺も」
「渡したいものあんねや」
「何だよ」


忍足は鍵盤から手を離し、ポケットから小さな箱を取り出す。鍵盤には何も触れていないのにまだ辺りにはG線上のアリアが流れているようだった。忍足は跡部に見えるように箱を静かに開ける。そこに入っていたのはシンプルな、指輪。
跡部はトロンとした目を少し見開いた。忍足は跡部の左手をとってゆっくりと薬指にはめる。そして、ポケットからもう一つ、今度は箱に入っていない先ほどと同じ型の指輪を取り出すと自分の左手の薬指にはめた。それを満足気に跡部に見せると、跡部も笑った。忍足が跡部に顔を近づける。唇が少しだけ触れた。その時。


紅い薔薇が舞った。


「景吾」


紅い薔薇が散った。






俺の恋人は綺麗な薔薇になりました。






(一人にはさせないよ、寂しがりやの君を)






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